後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

私は馬鹿でした!

2018年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム
10月20日に、「日本人は欧米人と共通の価値観を持っていない」という記事を掲載しました。
その冒頭部分は次のような物でした。
昨日、「サウジ記者惨殺で大騒ぎ、日本にとっては対岸の火事」という記事を掲載しました。
私が主張したかったことは、この事件を対岸の火事のように冷ややかに見ている日本人には問題があるという主張でした。
日本人は欧米人と共通の価値観を持っていないということです。人間の平等とか自由に関して共通の価値観を持っていないということです。
日本人が欧米人の感じ方を深く理解していないのが悲しいのです。
しかし多くの日本人はそれが当然だと考えています。そんな欧米人の感情は放っておけと感じているのです。日本人には関係ないと思っているのです。・・・・

この記事の評判は非常に悪かったのです。日本人は各人それぞれの価値観を持っているのが当たり前です。何も欧米人と同じ価値観なんて持つ必要などありませんという反対意見を沢山貰ったのです。そして私の主張は現実を理解していない机上の空論だと非難されました。
下書きを読んだ妻がまず口をとがらせて言いました。あなたとは価値観がいろいろ違います。それでも平和に暮らしているのだから良いではありませんかと。この意見と皆様から頂いた批判を虚心坦懐に考えれば私が間違っていることに気がつきました。
私は馬鹿だったのです。

今日は何故、馬鹿な間違いを書いてしまったか理由を書きます。
理由は二つあります。一つは自分の職業病のせいです。もう一つの理由はキリスト教の信者なので仏教徒や無宗教の人の価値観を考慮に入れなかったせいです。
以下にその説明をさせてください。

(1)人類共通に価値のある研究成果を上げなければ駄目な研究者だというお題目を唱える職業についていたので間違いました。
私は工学部で工業の基礎研究をしていました。分野は金属精錬で、その技術の進歩に役に立つ物理化学の実験的研究でした。
いつも目標にして心がけいたことは世界に通用する研究をすることでした。良い研究とは国境に関係無く金属精錬の工業に少しでも役に立つ研究です。
私が努力したことは研究成果が世界中に普遍的に通用する成果を少しでも上げることでした。
このように工業の基礎研究においては世界共通の価値を常に考えます。
このことはあらゆる分野の工業の基礎研研究で要求される必須条件なのです。
このように科学や工学の研究の分野では「共通の価値感」が間違いなく存在しているのです。
この状態を浅はかにも政治的な価値観や宗教的な価値観まで同じだと考えたのです。
人間の平等や人権に関する考え方は国々によって違います。個人、個人によって違います。
それなのに日本人は欧米人と人権などに関しても共通の価値感を持つべきだと主張したのです。
それは工学の研究者としての職業病のような愚かな主張でした。

(2)人間は神の前で完全に平等だというキリスト教を信じていたので無宗教の人々の価値観に言及しなかった間違いもありました。
人権は一人一人へ神が与えたものだから重要視し、それが世界の共通の価値観にすべきという主張は他の宗教への配慮が無いのです。これこそが前の記事の欠陥でした。
お釈迦さまは人間は平等だとは教えませんでした。第一、この世の現実を見れば人間は不平等なのに気が付きます。貧しい家に生まれた人は出生から不平等なのです。
不平等だと不平を言い続けているの周囲から疎外され不幸になります。
無宗教の人も人権は大切だと思いますが、自分の人権だけを守ろうとすると協調性が無いと言われます。
日本では和を以って貴しとなすという言葉が優先します。
このように人権や人間の平等が重要だという考え方はキリスト教から生まれた思想です。
ですから無宗教の人の多い日本やアジアの仏教国や中東のイスラム教の国々でもキリスト教から生まれた思想が通用すると考えたら大間違いです。

皆様から真摯なコメントを沢山頂いたおかげで自分の間違いが分かりました。
特に中村 裕一 さん、Motoko Boutdumonde さん、石山 望 さんへ感謝します。

それにしても日本のマスコミには問題があります。末尾にMotoko Boutdumonde さんと石山 望 さんのご意見をつけましたのでご覧ください。

今日の挿し絵代わりの写真は3つの都立公園の秋の風景写真です。1、2、3番目の写真は小金井公園で、4、5番目の写真は武蔵野公園で、6,7番目の写真は野川公園です。昨日撮りました。

それはそれと、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)


===日本のマスコミの欠陥===================
Motoko Boutdumonde
おっしゃることは良く分かりますし、この風潮を嘆いておいでになることも良く理解しております。ただ、また生意気なのですが、私の思ったことを述べさせてくださいませ。
この事件に関し試しにグーグルで日本語で「サウジアラビア カショギ」で検索したところ、ほとんどがついこの数日の記事で、カショギ氏が蒸発してから大分経ったものしか見つかりませんでした。ということは日本人が欧米人と共通の価値観を持っていないと言うよりはメディアが取り上げないことに問題を感じています。例外は朝日新聞とAFPBBです。この2社は早速5日に報道していました。
日本のメディアが騒げば自ずと日本の方もこういった事件に注目するのではないでしょうか。
いつも私が感じることは、日本のメディアの意識の低さです。もちろん全てのメディアがそうであるとは申しません。普通一般のニュースとならなければ「知らない」訳ですから。日本のテレビとか観ても、全局が例えば芸能人のスキャンダルを追ったり、くだらない事を大げさに報道して、肝心なことに視聴者の眼を向かせないように思えます。それでなければ視聴率が落ちるのかも知れませんが、新聞などを見ても特に海外のニュースに割かれている面積はひどく少ないような気がするのです。メディアがこれではどうやって日本人の価値観が、世界情勢に関するニュースを提供されている欧米人のものと共通になれるのでしょうか。

石山 望
人間は、自分に固有の価値観を持てばいいとは、思います(しかし、その価値観は、客観的に見て「妥当」でなければなりませんけれど。荒唐無稽、無茶苦茶ではない)。
しかしながら、異国で起っている事は、自分には関係がない、または何の影響も感じないからと言って、無関心でおられるものでしょうか。
私は、30歳まで日本にいましたが、その間、日本の本当のところ、ましてや異国のことは、正直に言って、何も知りませんでした。
日本を出たのにはいろんな理由がありますが、そのうちの一つが、この世界を見たいということでした。もともと日本には住めなかった人間でしたので、それで、良かったのです。気持ちはすっきりしました。
幸い、私の住んでいる英国では、直接自分たちには関係がなかっても、世界の隅々のことまで、逐一知らせてくれます。これはありがたいです。
そうすると、物事を「俯瞰的に」見ることができます。自分のおかれている立場を知ることができます。
さりながら、私、日本も日本人も好きですので、毎年一回帰ります。
そんなに不満を抱くのでないのであれば、自分の生れ育った国で、一生を終えるというのが、最高の幸せなんですよ。私はそう思います。













秋の歓喜、美しい空と紅葉、黄葉の風景

2018年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム

秋は歓喜の季節です。澄んだ高い空に白い雲が美しい模様を描いてくれます。
空気も程よく乾燥して爽やかな風が頬を撫でて行きます。
蒸し暑くて耐えられなかった長い夏を辛抱した後で、このような爽快な日々が来るのです。歓喜です。
その上樹々の葉が黄色や赤く変わって野山を飾ります。
昔は紅葉した庭の落ち葉を集めて落ち葉焚きをしたものです。そのかぐわしい煙の匂いが懐かしいです。
今日は去年の11月に撮った秋の空と紅葉の写真をお送りします。ここ東京近辺では10月中はまだ紅葉になっていません。紅葉が待遠しい風景です。

1番目の写真はでは相模湖の上の秋空です。薄く筆で白く描いたような秋独特の雲が広がっています。

2番目の写真も相模湖の上の秋空です。秋独特の白い雲が山の上に踊っています。
秋独特の雲と言えば鯖雲や鰯雲や羊雲ですが、すぐに消えてしまうので肉眼でしか楽しめません。写真をお送り出来ないのが残念です。

3番目の写真は山梨県の甲斐駒岳の山麓の秋の色です。

4番目の写真も同じです。褐色に近い秋の色も美しいものです。

5番目の写真はの私の山の小屋に登って行く道の風景です。黄葉した樹々が道を明るくしています。

6番目の写真は小屋の周囲の林の中に流れる紅葉を焚いた煙の写真です。昔は焚火をしていましたが焚火禁止になったので、落ち葉を少量室内の薪ストーブで焚きます。煙の香りを楽しむためです。

7番目の写真は山小屋の帰りに寄った昇仙峡の上のダム湖の黄葉の風景です。水面に黄葉が映っていて美しい風景です。

さて紅葉を焚き、その煙の香りを嗅ぐと必ず想う漢詩があります。
白居易が昔遊んだ仙遊寺の林で紅葉を焚いて酒を温めたことを回想する漢詩のことです。
年老いた自分は遠方の仙遊寺の林へ行く事はもう無い。しかしそこへ帰って行く君が羨ましい。そんな内容の詩です。この句は平家物語にも出て来て日本でもよく知られています。
山林の中の小屋の周りに散り敷いた紅葉を掃除して、薪ストーブで少々焚く度に、思い出す漢詩です。
毎年晩秋になると小屋の周りの落ち葉を掃き集め綺麗にします。
林間に流れる煙の香りを楽しみながら、行く秋を惜しみます。
季節の移ろいは早く、あんなに猛暑だった夏も嘘のようです。間もなく白い雪が一面に覆います。

寄題送王十八帰山仙遊寺   白居易

曽於太白峰前住
数到仙遊寺裏来
黒水澄時潭底出
白雲破処洞門開
林間煖酒焼紅葉
石上題詩掃緑苔
惆悵旧遊復無到
菊花時節羨君廻

<通釈>
その昔、私が太白峰の麓に住んでいた頃はよく仙遊寺へ出かけたものだ。
水が澄む秋の季節には、川淵の底まで透けて見え、白雲が切れた辺りに
仙遊寺の山門があった。また仙遊寺の林間では散り落ちた紅葉を焚いて
酒を煖めたり、緑苔を払った石の上に詩を書いたりしたものだ。
ああ残念ながら、昔遊んだあの地に私はもう二度とは行くことはないだろう。
菊の花の咲くこの季節に、そこに帰っていく君が羨ましいよ。

<語句の解説>
・王十八・・・・排行(兄弟・従兄弟の順の十八番目)、の意。
・寄題・・・・・その場所から離れている地で詠ずる、の意。
・太白峰・・・・都長安の県城南方20kmにある秦嶺山脈の主峰のひとつ。
海抜3767m、李白の「太白峰に登る」で有名。
・仙遊寺・・・・唐の都、長安の郊外にあった寺。
・黒水・・・・・秋の川の水、の意。
・曾遊の地・・・以前に遊んだ土地。
・潭・・・・・・川の淵、の意。
・惆悵・・・・・恨み嘆く、の意。
以上の出典:http://plaza.rakuten.co.jp/1492colon/diary/200812110000/

さて皆様はこの素晴らしい秋の季節をどのように楽しんでいらっしゃるでしょうか?

それはそれと、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)