後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

江の島の昔の風景と強烈な西洋文化の風景

2018年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム
日本民族という言葉を私は好きです。その歴史も大好きです。私は日本文を大切にしている愛国者です。
それが心に沁みついているので、写真を撮る時、嗚呼これは伝統文化の風景だ、嗚呼これは日本にある西洋文化の風景だと区別しながら撮る習慣があります。
そうするとその風景の背後にある人々のいとなみの歴史が見えて来て面白いのです。
明治維新の大きな変革がよく理解出来るので興味深いのです。維新で変わったもの、変わらなかったものが見えて来るのです。西洋の文化がどのように入ってきたかが理解できるのです。
昨日も江の島と茅ケ崎の海岸に行って、2種類の写真を撮って来ました。その対比を見ると日本の文化についていろいろ想われて楽しいのです。
それでは早速、日本の伝統的な風景の写真から始めます。

1番目の写真は江の島の西にある茅ヶ崎の海岸の風景です。この広々とした風景は奈良時代、平安時代から寸分変わっていない筈です。

2番目の写真は茅ヶ崎の海岸の烏帽子岩と波打ち際で遊ぶ母と子供の写真です。
烏帽子岩は昔から変わりません。しかし母や子供たちが西洋の服を着ています。昔は質素な着物を着て遊んでいたに違いありません。

3番目の写真は江の島の弁財天の入り口の門の風景です。入り口の門は近年建てられたものですが、その形が日本の伝統的な風景になっています。
この写真は以前にお正月に江の島に遊びに行った時に撮った写真です。このような風景は多分、鎌倉時代からの伝統なのでしょう。江の島は鎌倉に近い島なのです。

4番目の写真は江の島の弁財天の参道にある日本菓子の店の内部の光景です。創業、寛政元年と書かれたノレンが写っています。江戸時代には江の島の弁財天のお参りが流行って江戸からの人々で賑わったと言います。
この弁財天の歴史をかいつまんで書きます。
欽明天皇13年(552年)、神宣に基づき欽明天皇の勅命により、江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まると伝えられています
『吾妻鏡』によれば、寿永元年(1182年)、源頼朝の命により文覚が島の岩屋に弁財天を勧請したとあります。
歴代の鎌倉幕府将軍・執権や、代々の領主から崇敬を受けてたようです。江戸時代には弁才天信仰が盛んになり、多くの庶民が参詣するようになって参道の土産物屋や旅館が賑わったのです。
しかし明治維新は江の島に悲劇をもたらしたのです。
明治元年(1868年)の廃仏毀釈により三重塔や多くの仏堂や仏像などが破壊されたのです。
明治6年(1872年)には、仏式を廃して神社となり「江島神社」へ改称させられたのです。
同時に僧侶は全員僧籍を離れて神職となり、岩本院という宿泊施設は旅館となり「岩本楼」へ改称し現在も存続しています。私も1963年頃に岩本楼に泊まったことがありました。
江の島にはそんな歴史と文化があったのです。
しかし1964年のオリンピックで江の島がヨットレースの会場になってから強烈に西洋文化を代表するヨットのマリーナが島に出来たのです。その西洋文化を象徴するような風景写真を3枚示します。

5番目の写真は江の島ヨットハーバーの風景です。ヨーロッパ文化にとって重要な役割を果たした西洋式の帆船が並んでいます。

6番目の写真はヨットを後ろから撮った写真です。
日本にも昔から帆船がありました。しかし日本の帆船は風に向かってが走れなかったのです。それが決定的な弱点でした。
ヨットと呼ばれる帆船はヨーロッパで設計された図面通り忠実に作られた船です。その部分品一つ一つがヨーロッパ文化を背負っているのです。ヨットを趣味にして25年間乗ってみるとヨットこそヨーロッパ文化が詰まった文化遺産だと深く理解出来たのです。

7番目の写真は江の島のヨットマリーナの全景です。
ヨットにはキャビンの無い小型のものもあります。その小型ヨットのことをデンギィと呼びますが、その置き場のデンギィヤードはこの写真の右側に広がっています。
私がヨットを習ったレッツゴーセイリングというヨットスクールがあった場所です。
この江の島や葉山などの湘南海岸に多数のヨットが入って来たのは戦後です。
石原裕次郎がデインギィに乗っていたことがヨットの流行に拍車をかけたのです。
しかしキャビンを持つ大型のヨットのマリーナが出来たのは1970年代から始まる経済の高度成長の後でした。
なお詳しくは次の記事をご覧下さい。
『白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(1)全体の構成、そして渡辺修治さんとの絆』2011年11月30日 掲載記事。

5,6、7番目のような写真の歴史は比較的に新しく日本の経済の高度成長の後に出来た風景なのです。

このように日本の風景写真を日本の伝統的な風景とヨーロッパ文化の影響を受けた風景と分類して撮るのが私の趣味です。しかし風景によっては2つの伝統文化が混然一体になっている場合もあります。面白いものですが、困っています。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

秋深い北海道の風景とアイヌ民族を愛した松浦武四郎

2018年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道の自然には太古のままのような雰囲気があります。風景もヨーロッパを思わせる景観で旅心をかき立てます。ロマンチックです。特に秋深い北海道は、やがて来る厳しい冬の予感を与えています。
もう何十回も訪れました。
今日はまず秋の風景写真をお送りいたします。2015年に道東に行った時の写真です。

1番目の写真はウトロから知床五湖へ行く途中の白樺です。10月中旬なのに完全に落葉しています。

2番目の写真は知床五湖の第一湖です。駐車場から幅の広い立派な木道があり一湖までは足が弱い人でも歩いて行けるのです
背景の山並みは知床連山です。天候が変わりやすく冬が近い感じです。

3番目の写真は知床五湖から網走に帰る途中にあった白樺林です。

4番目の写真は知床五湖の近辺にいたエゾシカの親子です。エゾシカは沢山見ました。キタキツネも沢山見ました。

5番目の写真は新得町狩勝高原の釧路湿原に続く畑作地帯にいた鶴の一家です。鶴は一生同じ夫婦で過ごし子供も一緒です。
真ん中の首がまだ黒くなっていないのが子供の鶴です。両脇がその両親です。

6番目の写真は知床五湖の近くにいたヒグマです。この熊は人を恐れずにバスから10m位の所を徐行するバスに従って歩いているのです。数分歩いて写真を撮り終わった頃に林の中に消えて行きました。
知床には何度か来ていましたが、ヒグマをこんなに間近に見るのは初めてでした。

7番目の写真はウトロの漁港です。写真の中央の岩山に一度だけ登ったことがあります。観光客が登れるように道がついているのです。
以上の写真では知床近辺だけを示しましたが北海道は雄大なのです。その自然の風景を一層引き立ているのが数々の湖です。摩周湖。阿寒湖、屈斜路湖、オネントー、サロマ湖、洞爺湖、支笏湖、などなど枚挙にたえません。

この北海道の名前をつけ、アイヌ民族を愛したのが松浦武四郎でした。
それまでは北海道は蝦夷地と呼ばれ、北海道という名前は無かったのです。
アイヌは縄文人が弥生人と混血しないで残った原日本人なのです。
北海道には4万年前の石器時代からアイヌ民族が住んでいました。本州北部と同じ文化圏で縄文時代までは同じような土器を使って煮炊きをしていました。
このアイヌ民族を愛し北海道の各地の名前にアイヌ語を残したのが松浦武四郎でした。
松前武四郎の生涯をご紹介します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%AD%A6%E5%9B%9B%E9%83%8E より抜粋しました。
文化15年(1818年)、伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて郷士・松浦桂介ととく子の四男として生まれる。
松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ来たといわれている。
父親は庄屋を営んでおり、比較的恵まれた中、文化的な素養を身に付けたとされる。13歳から3年間、平松楽斎(漢学者・伊勢津藩士)のもとで学び、猪飼敬所、梁川星巌らと知己を得る。
山本亡羊に本草学を学び、16歳から諸国をめぐった。天保9年(1838年)に平戸で僧となり文桂と名乗るが、故郷を離れている間に親兄弟が亡くなり天涯孤独になったのを契機に、弘化元年(1844年)に還俗して蝦夷地探検に出発する。1846年には樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し、その探査は択捉島や樺太にまで及んだ。
安政2年(1855年)に蝦夷御用御雇に抜擢され再び蝦夷地を踏査、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版した。
明治2年(1869年)には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定した。
翌明治3年(1870年)に開拓使を批判して職を辞し、従五位の官位も返上した。この間、北海道へは6度赴き、150冊の調査記録書を遺した。
明治3年(1870年)には北海道人と号して、「千島一覧」という錦絵を描き、晩年の68歳より富岡鉄斎からの影響で奈良県大台ケ原に登り始め、自費で登山道の整備、小屋の建設などを行った。
明治21年(1888年)、東京神田五軒町の自宅で脳溢血により死去。

以上のようにアイヌの伝統文化を尊重し、北海道の各地の地名にアイヌ語の地名をそのまま残したのです。ご存知のようにサッポロも漢字表記にして札幌と書いたのです。
松前武四郎のおかげで北海道にアイヌ語の地名が多数残ったのです。何故か感慨無量です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

===北海道のアイヌ語の地名==========~=
赤平(あかびら) 旭川(あさひかわ) 芦別(あしべつ) 足寄(あしょろ) 厚岸(あっけし) 厚沢部(あっさぶ) 厚田(あつた) 厚別(あつべつ) 厚真(あつま) 網走(あばしり) 虻田(あぶた) 硫黄山 伊香牛(いかうし) 幾春別(いくしゅんべつ) 生田原(いくたはら) 石狩(いしかり)などなど多数。以下省略。
http://www1.plala.or.jp/kanakikaku/ainutimei.htm