後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

世界各地に住む中国人と漢詩のことなど

2018年10月10日 | 日記・エッセイ・コラム
中国人は漢民族とも呼ばれます。昔から東南アジアの各地に移住して住んでいました。近代になると欧米諸国にも住むようになります。この漢民族と共通の文化的基盤を有するのは朝鮮民族と日本民族などがあります。
今日は漢民族に焦点をあてて考えて見ようと思います。
私は北京や瀋陽に招ばれ大変世話になったことがあります。またアメリカ在住中には中国人に助けられたこともあります。
何時も感心することは外国に住んでいても中国人は漢民族文化に誇りを持って生きていることです。外国の国籍になっても中国人はあくまでも漢民族なのです。そんな漢民族の一人一人は義理人情に篤く信用出来るのです。
現在、中国は共産党の独裁国家です。しかし中国人と個人的に付き合うと共産主義など全く関係無く長い間親身のお付き合いが出来るのです。
その上、彼等と日本人の共通のものとして漢字があります。簡単な要件なら筆談で意志が通じるのです。
店の看板が分かります。中国に行っても違和感が無いのです。
そして唐時代の漢詩の話をすると親近感が一層湧いてきます。漢詩こそ漢民族の誇りなのです。
漢詩は日本人の教養ですが共産党の中国の学校でも現在教えています。
例えば、湖南省の邵阳市第一中学校のHP(http://www.sysyz.com.cn/wx/sh.aspx?id=280 )にも「元二の安西に使するを送る」と題した漢詩が挿絵入れで紹介してあるのです。その挿絵をここにお送りいたします。

1番目の写真は共産国家の中国の湖南省の邵阳市第一中学校のHPの挿絵です。日本人のよく知っている漢詩が書いてあります。
その漢詩は以下の通りです。

「元二の安西に使するを送る」
渭城の朝雨 軽塵を潤し
客舎青青柳色新たなり
君に勧む更に盡くせ一杯の酒
西のかた陽關を出づれば故人無からん

「送元二使安西」
渭城朝雨潤輕塵
客舎青青柳色新
勧君更盡一杯酒
西出陽關無故人

邵阳市は日本の漢字で書くと邵陽市になります。
古典文学の教養として日本も中国も同じ漢詩を幾つも習っているのです。
日本でも唐時代の漢詩を学校で教えています。ですから日本人は漢詩の幾つかを憶えていて、折にふれ詠み返しています。
王維が友人の送別のために書いたのがこの漢詩です。唐の都から西の陽関という関所を越えて西域の僻地に旅立つ親友との惜別の詩です。もう二度と会えないかも知れない友へもう一杯の酒を飲んでくれと言いながら別れを惜しんでいるのです。
この詩のポイントは故人にあります。故人とは古くからの友人や親友の意味です。そして 陽関は関所の名で、現在の甘粛省敦煌県の西南の玉門関の陽(みなみ)にあったのです。

皆様も友人の送別会の時、この漢詩を朗誦したのではないでしょうか?
・・・渭城の朝雨 軽塵を潤し~客舎青青柳色新たなり~~
君に勧む更に盡くせ一杯の酒~~~
西のかた陽關を出ずれば故人無からん~無からん無いからん故人無からん  と三回繰り返しました。

外国で親しくなった中国人にこの漢詩の話をします。そして貴方も陽關を出て外国に住むようになったのですねと聞きます。故人(昔からの知り合い)はいなかったでしょうかと言うとニッコリ笑います。
それだけで非常に親近感が湧いてくるから不思議です。
外国に住む多くの中国人は外国生まれなので陽關を出て移住したのは祖父の代です。しかし外国籍の中国人は漢字の素養があり、小さい時から孫悟空の物語を読んでいます。
中国人は漢民族の誇りを持って世界各地に住んでいるのです。
現在、日本人も世界の各地に住んでいます。彼等の心の拠り所は日本民族の文化です。
世界に誇れる日本民族の文化とは何でしょうか?
万葉集でしょうか。源氏物語でしょうか。そして最近の工業製品の品質の良さでしょうか。あるいは現在、日本人が非常に優しいと有名だそうです。日本は何処へ行っても清潔で安全な国です。
これらの全体が日本民族の誇れる文化なのです。私は個人的にそのように信じています。

今日の挿し絵代わりの写真は私が好きな北京の離宮の頤和園の写真です。
写真は「頤和園の写真」を検索してネット上にあるものから選び、お借りしました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)








谷川岳が はやり安保闘争デモの時代、その時代の空気

2018年10月10日 | 日記・エッセイ・コラム
谷川岳の一ノ倉沢の岩登りが若者の胸を熱くした時代がありました。1960年代1970年代のことです。
一ノ倉沢の岩肌を命がけで登っている人がいる一方、街には安保闘争のデモが渦巻いていました。デモは学生の情熱でした。若者が燃えていた時代でした。
そんな時代の空気が懐かしいです。あの空気は二度と来ません。
先日、あるSNSに山の遭難記事を掲載しましたところその時代の空気をまざまざと思い出させるコメントを2人の方から頂きました。非常に活き活きした文章なのでそのまま転載致します。

(1)すけろくさんから 2018年10月06日 に頂いたコメント
若い頃は毎週のように谷川岳東面の岩場に取り付いていました。
社会人山岳会会員の宿命は休みが少ないため夜行、日帰りで岩登りをせざるを得ませんでした。
上野を前夜22時13分発長岡行きに乗り、未明の午前3時過ぎ土合駅に着きます。長い階段を駆け上がり、国道を早足で歩き、一ノ倉沢に入り、岩壁に取り付きます。
あちこちのルートから健闘中のパーティの声がします。昼近くに国境稜線に出て、西黒尾根、中芝新道を下り、登山は完結します。
このようにすべてうまく行けば良いのですが、転落、滑落をするときもあります。大したこともないパーティもあれば,致命的なミスをしてしまったパーティもいます。
何組か救助をしたことがありましたが、その多くが初心者よりも中堅~猛者のパーティが多かったものです。これはいかに谷川岳の岩壁が困難なものかがわかると思います。
最近は岩場に取り付く若者は50年前と比べると激減しているそうで、その分遭難も減っています。
しかし、昭和のはじめから最近までの遭難、死者の数はおびただしいもので、世界で一番遭難の多い山としてギネスブックに載ってしまいました。ロープウエー下の遭難碑を見るたびに山で亡くなった人々の冥福を祈ります。合掌。

(2)nishiちゃんさんから2018年10月06日に貰ったコメント
すけろくさん、長岡行きドンコ列車は22時45分か?49分だった様な記憶があります。尾瀬沼田、谷川土合駅など懐かしいです。
最初に行った時は地下からの階段は無かったです。2度目に翌年、翌々年に行った時は400~500段近くの地下トンネルから階段を上がって土合駅に出ました。
まだ渋川から蒸気機関車だったのも覚えています。
一ノ倉沢の出合の次のカーブに慰霊碑がはめ込まれています。
この横でテントを張って朝の日の出の写真を撮ったものでした。
衝立岩での宙吊りの遭難者を自衛隊がザイルを射撃して切断し、犠牲者を回収しましたね。その現場のオーバーハングを思い出しますね。6級ルート+スーパー6級ルート、七級ルートでした。
上部草付きルート、脆い岩で花崗岩岩壁では無いのと、沢筋ルートと相まってスーパー6級ルートです。やはりクライマーは憧れる訳ですね。
私もバットレスを少しやった位ですが・・・、やはり岩場で落ちたら死ぬ覚悟・・・、しかし相棒がザイルを握ってくれ確保してくれている・・・有難味。やはり相棒がいてのクライミングと思いました。
急に個人的な話になって済みませんが、加藤保男さんの笑顔、小西さんの笑顔からこぼれる白い歯今でも覚えています。
キャラバンにいた小西政嗣さんにも展示会でお会いすることが出来ましたね。そうだ・・・加藤保男さんのエルキャピタンで冬期エベレスト挑戦への前にこの映画を見て頑張って下さいと握手して励ましたのですが・・・。いろいろな方の想い出があります。
クライミングをやった時は落ちたら死ぬんだ・・・絶対に落ちない様に…と近場のゲレンデに毎週通いました。
しかし、やはりロマンチストには自分との戦いをロッククライミングに向けます。
サラリーマン世界の毎日の後の週末の岩登りに魅かれ多くの岳人が山に登ったのだと思います。
ポニージャックスかに山に煙が昇ると言う悲しくも哀愁を帯びた唄があります。私もやはり死を覚悟して初めて挑戦した山があります。
厳冬期1月20日から2月末迄を山での厳冬期と言います。
まだ誰もが成し遂げられなかった厳冬の北アルプス全山縦走を目標に単独で全てを自分で背負い挑戦したこともありました。
挑戦には素晴らしい意欲を感じます。
植村直己さんのことです。知り合いに植村さんと親しかった方がいましたのでよく植村さんのことを聞きました。マッキンレー登頂後遭難したのが残念です。・・・老境になると谷川岳に夢中になっていた時代が懐かしいです。あの時代の空気は2度と来ません。

上記のように登山に情熱を燃やしていた若者がいる一方、安保反対のデモに参加して興奮していた若者も沢山いた時代でした。
安保闘争とは1959年から1960年と1970年の2度にわたり日本でおこなわれた日米安全保障条約に反対する運動でした。
デモへの参加者は国会議員、労働者や学生、市民および左翼や新左翼の運動家などなどでした。
60年安保闘争では安保条約は国会で強行採決されたものの、岸内閣は混乱の責任をとって、内閣総辞職をしなければならなくなったのです。
しかし70年安保闘争では、闘争に参加していた左翼の分裂や暴力的な闘争、抗争が激化し運動は大衆や知識人の支持を失い、やがて終息しました。

添付の写真は谷川岳一ノ倉沢の写真3枚と国会を取り囲んだデモ隊安保デモの写真1枚です。1960年6月18日に撮ったデモの写真です。







いかがでしょうか、1960年代1970年代の時代の空気を思い出されましたでしょうか?

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)