後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ロマンかき立てる北海道(5)アイヌ民族の文化・・・知里幸恵、萱野茂、川村カ子トの活躍

2014年07月02日 | 日記・エッセイ・コラム

江戸時代の北海道にはその南端に小さな松前藩がありました。江戸幕府へ参勤交代をする大名が治めていました。しかしその他の広大な北海道の大地には狩猟と漁猟で生きていたアイヌ民族が独自の文化を持っていたのです。

その文化の内容を伝えた人々として知里幸恵、萱野茂、川村カ子ト(カワムラカネト)の3人を上げたいと思います。いずれも純粋なアイヌ民族です。

私はこの3人の書いた本を読みました。そして旭川にある川村カ子トアイヌ記念館と日高にある平取町二風谷(ニブタニ)にある萱野茂二風谷アイヌ資料館を訪問したのです。

川村カネトは鉄道技師として長野の飯田線の建設を指揮しました。萱野茂はアイヌ文化を研究し博士号を取得し、後に参議院議員になりました。

彼等の本を読み、旭川にあるアイヌ記念館や平取町の二風谷アイヌ資料館を訪問してみました。すると、文字を持たない民族のアイヌが高度な文化を持っていたことに驚きます。全ての民族文化に優劣が無いという言葉を実感できるのです。まず知里幸恵著、「アイヌ神謡集」から一節をご紹介いたします。

  梟の神の自ら歌った謡
     「銀の滴降る降るまわりに」(知里幸恵著、「アイヌ神謡集」より)

「銀の滴降る降るまわりに,金の滴
降る降るまわりに.」という歌を私は歌いながら
流に沿って下り,人間の村の上を
通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今お金持になっていて,昔のお金持が
今の貧乏人になっている様です.
海辺に人間の子供たちがおもちゃの小弓に
おもちゃの小矢をもってあそんで居ります.
「銀の滴降る降るまわりに
金の滴降る降るまわりに.」という歌を
歌いながら子供等の上を
通りますと,(子供等は)私の下を走りながら
云うことには,
「美しい鳥! 神様の鳥!
さあ,矢を射てあの鳥
神様の鳥を射当てたものは,一ばんさきに取った者は
ほんとうの勇者,ほんとうの強者だぞ.」
云いながら,昔貧乏人で今お金持になってる者の
子供等は,金の小弓に金の小矢をつがえて私を射ますと,金の小矢を
私は下を通したり上を通したりしました.・・・以下省略。

詳しくは、http://www.aozora.gr.jp/cards/001529/files/44909_29558.htmlをご覧下さい。

この「アイヌ神謡集」を読むと彼等が豊かな自然とともに幸せに暮らしていたことに感動します。フクロウやいろいろな神々をうやまい家族を大切にし、心豊かに生活していたのです。そして動物たちと人間のかかわりあいが美しく謳いあげあるのです。美しい文学です。

一方私は2004年の4月に、旭川の川村カ子トアイヌ記念館を訪問してみました。鉄道技師をしながらアイヌの工芸品を蒐集してた川村カネトのアイヌ人としての誇りと情熱がヒシヒシと感じるのです。下の写真は2004年に訪問した時の写真で左端が川村カネトの孫の館長です。 

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そして下にこのアイヌ記念館のHPから転載した川村カ子トの写真をしめします。 

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それから日高にある平取町の二風谷(ニブタニ)はアイヌの村落があったところです。そこの出身の萱野茂さんがアイヌ文化を学術的に研究し、工芸品を系統的に蒐集し、展示しているのが アイヌ資料館なのです。下にそのHPから萱野茂の写真をしめします。 

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北海道にはいくつもアイヌ文化の展示館があります。しかし私はこの川村カネトと萱野茂の展示館にこだわるのです。この二つの展示館からはアイヌ民族の息ずかいや情熱や誇りが感じられるのです。

萱野茂の資料館は彼の死後、平取町 町の二風谷アイヌ文化博物館の一部として管理されています。それは全体は広い博物館ですが、その一隅にある萱野茂の資料館だけが感動的だったのです。他の展示館やアイヌの家々の復元展示は立派ですが、何故か魂がこもっていないように感じられるのです。

同じような感じは、川村カ子トアイヌ記念館でも受けました。この二つのHPは以下にありますので、北海道に行ったら是非ご訪問下さい。

萱野茂の展示館:http://www.town.biratori.hokkaido.jp/biratori/nibutani/html/sryo0N.htm

川村カ子トの展示館:http://ainu-museum.sakura.ne.jp/cn24/about.html

さてそれはさておきアイヌ民族はどのような暮らしをしていたのでしょうか?

それはアイヌの食べ物やアイヌの料理法などを検索すると随分と詳しく出ています。

簡単に言えば彼等は容易に獲れるエゾシカの肉を食べ、秋には鮭を多量に獲り干して一年中食べていたそうです。そして粟や稗を栽培し、そのおかゆを食べていたそうです。魚や海藻も食べ、クジラやトドも食べていました。水田は作れませんでしたが彼等の食生活は想像以上に豊かなものだったのです。

下に秋に多量に獲れる鮭を干している写真と、料理に使った鉄鍋の写真を示します。出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E6%96%99%E7%90%86です。

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


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