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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ドイツの紅葉の思い出」

2025年02月13日 | 写真
ドイツの紅葉は緯度が高いので、急に真っ赤、真っ黄色になって、冷たい雨が降って、すぐに散ってしまいます。その紅葉の色は鮮烈です。もうすっかり遠い昔になってしまいましたが、1969年の9月に見たローテンブルグの町の紅葉は忘れられません。城壁の外の住宅に下宿していたので、毎日、車で城門をくぐり、ドイツ語学校へ通ったものです。そして日が暮れ行くころには、タウバウ川のほとりから、紅葉に彩られた町を囲む城壁が夕陽に輝くのを毎日見上げたものです。それはいつも独りで見上げていた晩秋の風景でした。異国の秋の夕暮れは何故かもの悲しいものでした。そんなドイツの紅葉を思い出したのでネットに写真が無いか探してみました。そうしたら、「もうすけさん」のブログ(http://mo-suke1122.blog.so-net.ne.jp/2010-10-31)の中にありましたので、以下にドイツの紅葉の写真をお送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

「地方色豊かなドイツのカーニバルの写真」

2025年02月13日 | 写真
「カーニバル」は、特にラインラント地方やドイツの中でもカトリックの影響が強い地方の古い風習です。その中心地はマインツ、ケルン、デュッセルドルフ、ボンです。南ドイツではアレマン地方の伝統的ファスネットを祝います。
https://japan.diplo.de/ja-ja/themen/willkommen/karneval-gegend/967296

1番目の写真はケルンのカーニバルです。

2番目の写真はデュッセルドルフのカーニバルの王子です。

3番目の写真はチューリンゲン州ヴァーズンゲンのカーニバルで
す。

4番目の写真はソルビア地方のカーニバルです。

ソルビア地方のカーニバル
ドイツ東部の少数民族ソルブ人の独自の風習を持っています。冬を追い出すため、騒々しい音を立てながら村の中をねり歩く、この仮想した集団は、村はずれまで行進する間、農家一軒一軒の前で止まり、ベーコンや卵、お金などを恵んでもらいます。農家の主人には焼酎をご馳走し、おかみさんとはダンスを踊ります。これはスラブ民族のカーニバルの古い風習で、「ツァムペルン」とよばれます。

「ドイツの冬の暗さと『30年戦争』」

2025年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム
ドイツは日本の同盟国として第二次世界大戦をともに戦った国でした。当時日本の新聞や雑誌にはドイツの良いことが沢山書かれていました。戦前は日本人の憧れの国だったのです。昭和11年生まれの私にとっても理想の国に思えたのです。
しかし日本よりも早く降伏したのでドイツの見方が少し変わりました。それでもドイツに留学したいと思い続けていました。
それが実現したのは1969年から1970年でした。1960年から1962年のアメリカ留学の後でした。
1969年の8月にドイツに到着しました。それから家族をよんで1970年の11月までシュツットガルトに住みました。娘はドイツの小学校に、息子は幼稚園に通いました。家内は教会の旅行や買物等の日常生活を楽しんでいました。南ドイツに住んでいたのでスイスやフランスにも旅しました。
ドイツに住んでみると知らなかった事が多くドイツを興味深く感じました。

今日は日本人があまり知らないドイツで重要な2つのことを書きたいと思います。寒さが厳しい冬の暗さと、『30年戦争』の2つのことです。
まずドイツの冬の風景の写真をご覧ください。


ドイツは気候も社会も若い頃留学したアメリカのオハイオ州とは全く違うのです。
同じ欧米人なのにアメリカとドイツでは人々の考え方が驚くほど違うのです。
「ヨーロッパの階級社会や伝統社会から逃れた人々がアメリカに行って国家を作った」という一行の文章の意味がしみじみ理解出来るのです。
それはさておき、まずはじめに寒い冬の暗さを書きます。その長い冬を体験した結果、ドイツの文化を理解するためにはこの冬の厳しさを考慮に入れて考えるべきと思ったのです。
これは重要なことで、その後、私がいろいろな外国の文化や社会を考える時、必ずその国の天候や自然条件を考慮に入れるようになったのです。
例えば北欧の観光写真を見ると、ほとんど全てが夏の晴天の日に撮ったものです。そんな輝く晴天の日は年間でほんの数日しか無いのです。北欧の人がそんな夏の日に感じる歓喜が想像出来ようになったのです。
内陸のヨーロッパの人々が明るい地中海沿岸のイタリヤや南フランスに強く憧れるのは暗くで長い冬のせいなのです。
私が外国を理解するとき天候や自然の条件を考慮に入れるように変わったのです。

もう一つドイツで重要なことは『30年戦争』です。
不思議なことにドイツの研究所の実験室に必ず冷蔵庫があってビールが沢山入っています。実験に疲れたとき1、2本水がわりに飲むのです。そんな折りの雑談の話題は決まったように中世の「30年戦争」のことなのです。
確かなことは忘れましたが1600年代にドイツの町や農村を徹底的荒廃させ人口の何割かが殺された内戦のことです。
私は日本の学校で「30年戦争」がそんなにドイツにとって重要だとは習いませんでした。ですから「30年戦争」など記憶になかったのです。
ところがドイツ人はビールを飲むたびにこれを話題にして喧々諤々の議論をするのです。
そこで判ったのです。人々が習う歴史とは国々によってまったく違うという事実です。
この世に絶対的に正しい歴史などは存在しないのです。歴史は権力者に都合良く書かれているのです。
歴史とは国々によってまったく違うという事実を体験的に理解できたのです。
アメリカでビールを飲んだ時の話題は野球やアメリカン・フットボール、バスケットボール等スポーツに関することが多いのです。あるいは趣味の話です。ところがドイツでは歴史が話題になるのです。
これもドイツ人とアメリカ人の違いの一つですね。

ドイツにはもっといろいろなことがありますが、今日はこれぐらいにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「ドイツ留学で理解できたハプスブルグ家の絶大な影響」

2025年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム
ドイツには1969年の夏から1970年の秋まで一年4ケ月住んでいました。そして一番吃驚したことはヨーロッパは国々や地域によって文化が非常に違うということでした。
日本から眺めると西洋文化という一つの文化があるように見えますが、住んでみると国々や地域によってそれぞれ歴史や文化が非常に違うのです。
ドイツも北では「こんにちは」はグーテンターグと言いますが、私共が住んでいた南ドイツではグリュースゴットと言います。言葉だけでなく考え方が違うのです。
シュツットガルトでアパートを探しましたらシュバーベン出身の人以外には貸さない家主が多いのです。シュツットガルト地方は昔、シュバーベン王国だったのです。要するに地元の人にしか貸さないのです。新聞広告にはっきり「 シュバーベン人に限るに」と明記してあります。
理由を聞くとシュバーベン人は家を綺麗にし、清潔に暮らすからだと言います。
仕方なく研究所にいるシュバーベン人に同行してもらい保証人になって頂きアパートを借りました。
この経験から私は文化は地域によって違うということを身に沁みて実感したのです。文化と地域を結びつけて考えるようになったのです。これはドイツ留学で私の受けた影響の一つです。
そういう目でヨーロッパ文化を眺めるとハプスブルグ家の影響が大きかったことに気がつきます。
ハプスブルグ家がヨーロッパのあちこちに広大な領土を所有し、各地の文化を発展していったのです。
ハプスブルグ家は軍隊も持っていましたが、日本人が考えるような「近代国家」ではなかったのです。ですから日本人には理解しにくいのです。しかしこれが判らないとヨーロッパというものの本質が理解出来ないのではないでしょうか。
日本では産業革命以後のイギリス、フランス、ドイツ、アメリカの文明を熱心に取り入れて富国強兵を実行し幾つもの戦争をしました。そして敗戦です。戦後もアメリカの工業技術を熱心に取り入れて経済の復興と高度成長に成功しました。
従って産業革命より古いヨーロッパの文化をとかく軽視する風潮があります。それは仕方の無いことです。
しかしヨーロッパ文化へ与えたハプスブルグ家の影響を調べてみるとヨーロッパのある側面が見えて来るのです。そして現在のヨーロッパの通貨の統合やEUの考え方が少し理解出来ると思います。
さて前置きが長くなりましたが、ハプスブルグ家は武力と婚姻関係を利用してヨーロッパ全土に領土を広げ、幾つもの王国を作り、その王達の生殺与奪の権力を手中に収めた一家だったのです。
中世から近代にかけてヨーロッパ全土に支配権を及ぼし、「ヨーロッパは同じ文化圏」という考え方を定着させたのです。
ヨーロッパの歴史でそのような一家はウイーンのハプスブルグ家とフィレンツェのメディチ家です。メジチ家はルネッサンスの芸術家を援助したので日本では善玉になっています。
しかしハプスブルグ家も中世以来、ルネッサンス期も通して芸術家を支援し音楽や絵画を育てていたのです。
この2つの家だけが有名なのは王様の権力以上の権力を握っていたからです。
ハプスブルグ家の当主はその広大な領地内の幾つかの王国の王様たちより権力があったのです。その王位継承権をハプスブルグ家が握っていたのです。
これは日本人にとって理解しにくい事情です。ですから日本ではハプスブルグ家のことはあまり学校では丁寧には教えません。日本ではフランス革命の原因になったマリー・アントワネットだけは有名ですが。
それではハプスブルグ家の領土はどのくらい大きかったかを一番目の写真の地図で示します。

1番目の写真の図は、1547年時点でのハプスブルク家の領土です。(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83…)
ハプスブルグ家はオーストリアを中心にした領土とスペインを中心にした領土に別れていました。
そして中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の指名権、継承権を握っていたのですから驚きです。
現在も、ハプスブルグ家の子孫は婚姻によりスペイン、ベルギー、ルクセンブルクの君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性すらあるのです。
そしてこの一家の本拠地はウイーンのシェーンブルン宮殿にありました。二番目の写真で示します。

2番目の写真はがシェーンブルン宮殿です。(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83…)です。
そして多くの王国(公国や帝国を含む)の連合として、1526年から1804年まで「ハプスブルグ君主国」が存在したのです。
その歴史は複雑ですが、ご興味のある方は末尾に付けた参考資料をご覧ください。
「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻によってでも所領を増やしていったのです。
その例はマリア・テレジアが数多くの娘たちを各国の王子と結婚させたことでもよく知られています。その結果、ヨーロッパの数多くの王族が親戚関係になり、ある意味でのヨーロッパ統合の実態が自然に生まれたのです。
現在のヨーロッパ連合や通貨の統一はこのような歴史の影響があると考えるとヨーロッパ文化の奥深さが少し理解出来るのではないかと思います。
現在、日本ハプスブルグ協会が「文化芸術サロン」というブログを発表しています。そして良質のヨーロッパの芸術の日本への紹介活動をしています。ハプスブルグ家がこのように日本へもつながっていると思えば不思議な気がします。
ハプスブルゲ家の詳細は末尾の参考資料にあります。

それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

===========参考資料=================
ハプスブルク家は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系でした。古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の家系となった。また、後半は形骸化していたとはいえ、ほぼドイツ全域を統べる神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)の皇帝位を中世以来保持し、その解体後もオーストリアがドイツ連邦議長を独占したため、ビスマルクによる統一ドイツ帝国から排除されるまで、形式的には全ドイツ人の君主であった。ヨーロッパ随一の名門王家と言われている。(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83…)

ハプスブルク君主国(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83…)
ハプスブルク君主国は、オーストリア系ハプスブルク家(のちハプスブルク=ロートリンゲン家)が君主として統治した国家の歴史学上の呼称である。
正確には「帝国」ではない時代もあるがハプスブルク帝国とも呼ばれる。成立年はハプスブルク家がオーストリア大公領に加えてハンガリー王国、ボヘミア王国を獲得した1526年とされる。1804年までは公式の名称を持っていなかったが、同時代の人々ですらこれを事実上の国家として認識し、オーストリア(ハプスブルク家をオーストリア家ということから)と呼称していた。1804年から1867年はオーストリア帝国(「オーストリア家の帝国」という意味)、1867年から1918年はオーストリア=ハンガリー帝国(「帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」)を総称とした。

ハプスブルク君主国の領域は、大きく分けて以下の3つから形成されていた。
ハプスブルク家世襲領ハプスブルク家の所領とされたのは、現在のオーストリア、スロベニア、イタリア北部、ラインラント(1797年まで)である。ナポレオン戦争の過程でこれらの領土の多くが一旦は失われたが、ウィーン会議(1814年)によって多くを回復し、さらにザルツブルク大司教領を加えた。ベーメン王冠領ベーメン王国領はベーメン(ボヘミア)、メーレン(モラヴィア)、シュレージエン(シレジア)、ラウジッツからなっていた。ラウジッツは1620年にザクセン公国へ割譲され、シュレージエンはオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)の結果プロイセン王国に奪われた。ハンガリー王冠領ハンガリー王国はモハーチの戦いの後、北西部の3分の1がハプスブルク家、東南部と中部の3分の2がオスマン帝国の支配下に入った(オスマン帝国領ハンガリー)。オスマン帝国の衰退とともに、1699年のカルロヴィッツ条約で旧ハンガリー王国の領域の大部分がハプスブルク家へ割譲された。ハンガリー王国領とされた地域は、現在のハンガリー、スロバキア、クロアチア、ヴォイヴォディナ、トランシルヴァニア、ルテニアのカルパチア地方が含まれていた。オスマン帝国と接する最前線は、軍事上の必要性からウィーン政府による直轄支配とされた。

これら以外に歴史上、以下の地域がハプスブルク君主国の領域となった。
南ネーデルラント (現在のベルギーとルクセンブルク、1713年 - 1792年)
ミラノ公国(ロンバルディア、1713年 - 1797年)
ナポリ王国(1713年 - 1735年)
サルデーニャ王国 (1713年 - 1720年)
トスカーナ大公国 (1737年- 1860年)バナト・テメスヴァル (1718年 - 1778年)
セルビア (1718年 - 1739年)
ボスニア (1718年 - 1739年)
オルテニア (1718年 - 1737年)
シチリア王国 (1720年 - 1735年)
パルマ公国(1735年 - 1748年)
ガリツィア・ロドメリア王国 (現在のポーランドとウクライナの一部、1772年 - 1918年)
ブコビナ (1774年 - 1918年)
ヴェネツィア(1797年 - 1805年, 1814年 - 1866年)
ダルマチア(1797年- 1805年, 1814年 - 1918年)
ロンバルディア (1814年 - 1858年)
ホルシュタイン (1865年 - 1866年)
ボスニア・ヘルツェゴビナ (1908年 - 1918年)