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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「大学卒業後58年目のクラス会」

2025年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム
私たちは67年前の1958年に東北大学の工学部金属工学科を卒業しました。クラスは32名でした。そのうち物故者は数名です。
2013年の5月12日の午後5時から東京のアジュール竹芝というホテルで17名の出席で卒業後58年目のクラス会がありました。
卒業後58年目の5月12日のクラス会に出席した人の集合写真を示します。

紅顔の若い青年たちも58年年経つとこうなるのです。中に1人だけご婦人がいますが、竹内君の奥さんです。

この会合は大体2年ごとに幹事2名が交代で開催してきました。仙台のそばの松島や盛岡のそばの温泉でもしましたが、その他は箱根や熱海、湯河原でしました。
今回の幹事は管野君と香坂君でした。遠方から新幹線で来る人の便利を考えて東京浜松町に近いアジュール竹芝に設定してくれました。
会場に行ってみて吃驚しました。こんなに景色の良い会場が都内にあったのです。
その会場の眼下には、美しい船が出入りしていて、その先には夕陽に染まるレインボーブリッジが見えるのです。一枚だけその写真を示します。豪華客船、日本丸の出港風景です。

こんな船を見ると今宵の宴を豪華客船のレストランでしているような錯覚にとらわれるから不思議です。
そらはそれとして、クラス会の内容です。
大学卒業以来、2、3年毎にクラス会を開催してきました。その会合の内容を振り返って見ると大体、三つの期間に分けられるような気がします。
それぞれが会社で技師として活躍中の現役の間のクラス会。
おおよそ60歳で引退したあと10年くらいの間のクラス会。
そして、引退して15年以上経ってからのクラス会。
どのクラス会も、まず2人の幹事が開会挨拶をして、一番年上の今泉さんか及川さんが乾杯の音頭をとって始まります。
乾杯の後はしばらく傍の人々と雑談をしながら飲みます。そして酔いが回ったころ出席者が一人、一人と立って近況を報告します。
最後に乾杯をして終りです。
その後の二次会は任意参加で、泊まる宿の一室で行います。今回も夜の10時頃までしました。原子力研究者だった近藤君の、原発は人類にとって必要なものだという静かな説明を聴きました。水戸まで帰る彼が席を立ってからからは、気楽なお遊びの話をして散会しました。
この宴会は席順も勝手で、幹事の挨拶も短く、カラオケも下手な余興も無いので気に入っています。要するに皆平等で気楽に話が出来る宴なのです。

不平不満を言う人は皆無です。
今までのクラス会で一番楽しい会になりました。

その本当の理由は全員が間もなくやってくる旅立ちの準備が終わっているからだと思います。私はそのすがすがしさに感動し、会合がまた一段と楽しくなってのです。

我々の同級生が就職した富士鉄も八幡も日本鋼管も川崎製鉄も石川重工もみんな名前が変わって消えてしまったのです。隆盛をきわめた三菱重工も日本製鋼所もラサ工業もプログレスダイキャストもみんなみんな衰退してしまったのです。
これらの工業が再び隆盛することは日本ではないのです。

大学卒業後58年目のクラス会をご紹介いたしました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「少年の頃の思い出、消えてしまった沼と亜炭の煙」

2025年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和11年生れの私は戦前、戦後に仙台市で少年時代を過ごしました。その頃日中戦争が起きやがて真珠湾攻撃があり悲惨な大戦争のあった時代です。
今日は仙台の戦前、戦後の暮らしぶりの思い出を書いてみたいと思います。
さて皆様が子供の頃に釣りをしたり、遊んだ川や沼はまだ現存していますか?
皆様の子供の頃には炊事のための燃料や風呂釜の燃料は何だったのでしょうか?
今日の私の話は昔、釣りをしていた三つの沼と燃料にしていた亜炭という不思議な燃料が跡形も無く消えてしまったという話です。完全に消えてしまったのです。これは小さな出来事ですが私にとっては大きなショックでした。
それは故郷の仙台市の向山という地区のことです。その向山からは仙台の中心街が見下ろせる景色の良い所なのです。料亭や温泉旅館のあるささやかな仙台の観光地だったのです。
その高台には東洋館、鹿落温泉旅館、いかり亭、蛇の目寿司、広瀬寮、観月亭、黒門下の湯などが散在していました。長徳寺や大満寺や愛宕神社もありました。
その向山の谷地に沿って3つの沼が並んでいました。そこで私は小ブナを釣ったりオタマジャクシを捕って、蛙に育てたりして遊んだものでした。この3つの沼は少年時代の大切な遊び場だったのです。毎日この沼の岸辺で遊んでいました。
昔に向山を流れていた川が涸れて無くなり、湿地や幾つかの沼になっていたのです。
それが東京オリンピック後の経済成長にしたがって、湿地も3つの沼も完全に埋め立てられ消えてしまったのです。
フナ釣りをした沼はガソリンスタンドになってしまいました。そして他の沼もみな新しい住宅地になってしまったのです。
昔の風景は想像も出来なくなりました。この世から完全に消えてしまったのです。
この様な風景の変化は東京オリンピック後の経済成長の時代に全国で起きたのです。全国の都市部の郊外の風景が一変したのです。
さて完全に消えてしまったものといえば亜炭という不思議な燃料があります。仙台に漂っていた亜炭の独特な煙の臭いが消えて無くなったのです。
大正、昭和、そして戦後にかけて向山には数々の亜炭を掘り出す横穴がありました。子供のころはその亜炭の横穴に出入りするトロッコに乗って遊んだものです。横穴は電燈もない暗闇でした。怖くて30mも入ると逃げ出してきたものです。
向山の住民はこの亜炭を八鉱社という元締めから買って炊事や風呂の燃料にしていたのです。
夕方になると、亜炭の煙の独特な臭いが流れてきます。亜炭は石炭になる前の炭化した木材で、仙台の郊外で当時掘りだされていたのです。
燃料にするだけでなく埋木細工を作ってお盆や皿や飾りものにして仙台名物のお土産として売っていたのです。埋木細工をする職人の仕事が格子窓を通して見えました。子供心にその彫師のノミの動きに感動して、あかずに覗き込んでいたものです。そんな工房が向山に3軒あったのです。
その埋もれ木細工の職人の工房も向山から完全に消えてしまいました。
2枚の写真を示します。

1番目の写真が現在の鹿落ち坂(ししおちざか)の様子です。左の白い車の上の平地が昔、鹿落温泉(ししおちおんせん)の建物があった場所です。左上の大きな建物は料亭の東洋館です。坂の右下には広瀬川が流れています。東洋館と鹿落温泉からは仙台の中心街が見下ろせるのです。

2番目の写真は 戦後に新しく建てた仙台駅です。市電がその前を走っています。市内のあちこちへ行くときよく乗ったものです。

今日は少年の頃の思い出と消えてしまった沼と亜炭という燃料について書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)