高齢者が誰にも看取られずに死ぬことを孤独死と言うそうです。すると多分私も孤独死をすることになりそうです。
自慢ではありませんが家内は実に良く眠る人です。低血圧なので朝も起きられないのです。この分ですと私が夜寝ている間に死んでしまっても一切気がつかないでしょう。私は孤独死をする運命にあるのです。・・・これは冗談ですが。
今日は高齢者が時々考える孤独死のことを真面目に考えてみたいと思います。そして孤独死を救ったマザー・テレサの愛を考えてみます。
日本にはマザーテレサはいません。しかし孤独死を救おうとする優しい心の人々が沢山居ます。そんな話題を分かり易く以下のように整理して書いてみました。
(1)孤独死の状況と厳密な定義
人間は長生きをすると家族の方が先に死んで行き自分だけが残され独りだけで死ぬこともあります。あるいは結婚もせず親兄弟も事情があって一切いない人もいます。当然、孤独に死んで行く状況です。友人も家族も一切いないので一人で死んで行く人もいます。
こういう状況では孤独死になる可能性が少しあります。
しかし私の孤独死の定義はもっと厳密なのです。
一生の間、誰からも好意も受けず、感謝の気持ちも知らないで、他人を憎んで一人で死んで行く場合を孤独死と定義します。
単に高齢者が誰にも看取られずに死んだから孤独死というのでは無いのです。
インドの路上生活者は誰からも好意も受けず、感謝の気持ちも知らないで死んで行くと言ったら言い過ぎです。しかし死ぬとき感謝の気持ちが皆無なら孤独死です。
インドだけではなく現在の日本でも一人で死ぬとき感謝の気持ちが皆無なら孤独死です。
結論をいえば、(A)死ぬ時、誰も看取らないことと(B)一切の感謝の気持ちが皆無なことの2つの条件がそろわなければ厳密には孤独死と定義出来ないのです。前者は客観的条件であり、後者は主観的条件なのです。
(2)マザーテレサは何をしたのか?
インドの路上で死にかけた人を家に入れて、体を拭いてやり、お粥を食べさせたのです。それから彼等は死んで行ったのです。社会のゴミのように蔑すまれた人々が死ぬ間際に他人の好意に初めて感謝しながら死んで行ったのです。感謝した以上、それは孤独死ではありません。
マザーテレサは数十万人、いや数百万人の孤独死を防いだのです。
(3)何故、マザーテレサはこれが出来たか?そして何故インド政府は彼女を国民葬にしたのか?
信仰の力です。イエスの愛、神の愛を信じ切っていたのです。それを信じていれば汚れて死にそうになっている路上生活者を嫌がる必要は無かったのです。汚いと思わなかったのです。肉体的汚さは心の汚さに比べれば軽いものなのです。
インドは仏教を生みました。ヒンズー教やシーク教の国です。宗教を非常に大切にしている国です。
マザーテレサの行為を見て宗教の究極を理解し、感動したのです。そこにはキリスト教とヒンズー教の境界など消えてしまっていたのです。
マザーテレサの葬儀は国民全員が祈った盛大なものでした。キリスト教とヒンズー教の聖職者が一緒に参加しました。世界中の国々の大統領や首相が出席しました。これだけの参列者を集めたのは小さな体のマザーテレサの大きな愛の力だったのです。その愛は異なる宗教の壁を打ち壊しました。国境の壁をも消滅させたのです。
(4)現在の日本でも孤独死が多いのは何故か?
現在の日本でも時々新聞に孤独死の報道が出ています。報道のパターンは決まって、「孤独死!、何週間たってから遺骸発見」という見出しで遺骸の主が如何に孤独だったかを書き立てています。
しかしこのような死に方の全てが孤独死とは断定出来ません。上に書いたように、(A)死ぬ時、誰も看取らないことと(B)一切の感謝の気持ちが皆無なことの2つの条件がそろわなければ厳密には孤独死と断定出来ないのです。
もし遺骸の主が一生の間に家族や他人から受けた温かい支援や好意を思い出し、感謝しながら死んで行ったら、それは孤独死ではありません。立派な大往生です。
それとは対照的に世話になった医者の悪口を言い、助けてくれたボランティア達とも絶交して不平を言う人もいます。他人の好意に感謝しない老人も皆無ではなのが世の中の現実です。老人が放火したり刃物で他人を傷つけたりしたニュースも時々新聞に出ます。
嗚呼、死の直前でも他人へ感謝するようになってくれ! そうすると孤独死は免れるのです。そんな想いをしながら新聞を読んでいます。
今日の結論です。高齢者になったら他人へ対する感謝の気持ちを持つことです。そうすれば貴方は孤独死しないのです。たとえ誰も看取らないで一人で死んで行っても孤独死ではありません。楽しい感謝の想いに包まれた晴れ晴れとした旅立になるのです。
こんなことを考えるのは自慢ではありませんが家内は実に良く眠る人だからです。私が夜寝ている間に死んでしまっても一切気がつかないと思うからです。
今日の挿し絵代わりの写真は近所の園芸店で撮った花の写真3枚です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

自慢ではありませんが家内は実に良く眠る人です。低血圧なので朝も起きられないのです。この分ですと私が夜寝ている間に死んでしまっても一切気がつかないでしょう。私は孤独死をする運命にあるのです。・・・これは冗談ですが。
今日は高齢者が時々考える孤独死のことを真面目に考えてみたいと思います。そして孤独死を救ったマザー・テレサの愛を考えてみます。
日本にはマザーテレサはいません。しかし孤独死を救おうとする優しい心の人々が沢山居ます。そんな話題を分かり易く以下のように整理して書いてみました。
(1)孤独死の状況と厳密な定義
人間は長生きをすると家族の方が先に死んで行き自分だけが残され独りだけで死ぬこともあります。あるいは結婚もせず親兄弟も事情があって一切いない人もいます。当然、孤独に死んで行く状況です。友人も家族も一切いないので一人で死んで行く人もいます。
こういう状況では孤独死になる可能性が少しあります。
しかし私の孤独死の定義はもっと厳密なのです。
一生の間、誰からも好意も受けず、感謝の気持ちも知らないで、他人を憎んで一人で死んで行く場合を孤独死と定義します。
単に高齢者が誰にも看取られずに死んだから孤独死というのでは無いのです。
インドの路上生活者は誰からも好意も受けず、感謝の気持ちも知らないで死んで行くと言ったら言い過ぎです。しかし死ぬとき感謝の気持ちが皆無なら孤独死です。
インドだけではなく現在の日本でも一人で死ぬとき感謝の気持ちが皆無なら孤独死です。
結論をいえば、(A)死ぬ時、誰も看取らないことと(B)一切の感謝の気持ちが皆無なことの2つの条件がそろわなければ厳密には孤独死と定義出来ないのです。前者は客観的条件であり、後者は主観的条件なのです。
(2)マザーテレサは何をしたのか?
インドの路上で死にかけた人を家に入れて、体を拭いてやり、お粥を食べさせたのです。それから彼等は死んで行ったのです。社会のゴミのように蔑すまれた人々が死ぬ間際に他人の好意に初めて感謝しながら死んで行ったのです。感謝した以上、それは孤独死ではありません。
マザーテレサは数十万人、いや数百万人の孤独死を防いだのです。
(3)何故、マザーテレサはこれが出来たか?そして何故インド政府は彼女を国民葬にしたのか?
信仰の力です。イエスの愛、神の愛を信じ切っていたのです。それを信じていれば汚れて死にそうになっている路上生活者を嫌がる必要は無かったのです。汚いと思わなかったのです。肉体的汚さは心の汚さに比べれば軽いものなのです。
インドは仏教を生みました。ヒンズー教やシーク教の国です。宗教を非常に大切にしている国です。
マザーテレサの行為を見て宗教の究極を理解し、感動したのです。そこにはキリスト教とヒンズー教の境界など消えてしまっていたのです。
マザーテレサの葬儀は国民全員が祈った盛大なものでした。キリスト教とヒンズー教の聖職者が一緒に参加しました。世界中の国々の大統領や首相が出席しました。これだけの参列者を集めたのは小さな体のマザーテレサの大きな愛の力だったのです。その愛は異なる宗教の壁を打ち壊しました。国境の壁をも消滅させたのです。
(4)現在の日本でも孤独死が多いのは何故か?
現在の日本でも時々新聞に孤独死の報道が出ています。報道のパターンは決まって、「孤独死!、何週間たってから遺骸発見」という見出しで遺骸の主が如何に孤独だったかを書き立てています。
しかしこのような死に方の全てが孤独死とは断定出来ません。上に書いたように、(A)死ぬ時、誰も看取らないことと(B)一切の感謝の気持ちが皆無なことの2つの条件がそろわなければ厳密には孤独死と断定出来ないのです。
もし遺骸の主が一生の間に家族や他人から受けた温かい支援や好意を思い出し、感謝しながら死んで行ったら、それは孤独死ではありません。立派な大往生です。
それとは対照的に世話になった医者の悪口を言い、助けてくれたボランティア達とも絶交して不平を言う人もいます。他人の好意に感謝しない老人も皆無ではなのが世の中の現実です。老人が放火したり刃物で他人を傷つけたりしたニュースも時々新聞に出ます。
嗚呼、死の直前でも他人へ感謝するようになってくれ! そうすると孤独死は免れるのです。そんな想いをしながら新聞を読んでいます。
今日の結論です。高齢者になったら他人へ対する感謝の気持ちを持つことです。そうすれば貴方は孤独死しないのです。たとえ誰も看取らないで一人で死んで行っても孤独死ではありません。楽しい感謝の想いに包まれた晴れ晴れとした旅立になるのです。
こんなことを考えるのは自慢ではありませんが家内は実に良く眠る人だからです。私が夜寝ている間に死んでしまっても一切気がつかないと思うからです。
今日の挿し絵代わりの写真は近所の園芸店で撮った花の写真3枚です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


