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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今年はじめての海岸禅寺の白梅の開花

2018年01月30日 | 写真
今年は太平洋岸にも大雪が降ったり寒気が続いたりして寒い冬になりました。
小金井市の早咲きの海岸禅寺の梅の開花も一週間以上遅れています。毎日のように車で前を通り、その梅の木を観察していました。
それが昨日行ったら見事に三分咲きになっていました。嬉しくなり車を梅の木の下に入れ写真を撮って来ました。ほのかに良い香りも漂っています。

1番目から4番目の4枚の写真は今年初めて咲いた梅の花の写真です。この梅の木は一本だけお寺の庭の前の駐車場に立っていて、毎年一番早く咲き出す梅の木です。

梅の木のある海岸禅寺は臨済宗妙心寺派のお寺です。海岸禅寺の創建年代等はよく分っていませんが、江戸時代の元文元年(1736)作られたことは確かです。

まだ三分咲きなので黒い枝が目立っています。しかしよく見ると満開になっている花もあります。

梅の木の下には一週間前に積もった雪がまだ残っていて風情ある風景になっていました。

この5番目の写真は去年の1月30日の小金井公園の梅林が満開になっている風景写真です。小金井公園の梅林は海岸禅寺の梅よりも毎年10日遅れで満開になるのです。今年はまだまだです。
去年の小金井公園の風景は2017年01月30日掲載の、「今年も梅が満開になりました、そして梅花の漢詩」に出ています。

昨日は写真を撮るのは家内に任せ、私はお寺の住職さんのことを考えていました。
このお寺は京都の妙心寺を本山とする禅寺です。本堂の裏には墓地の無い修行を専門にしているようなお寺です。
内庭が何時も綺麗にしてあるのでいつも散歩に行くお寺です。墓地がないので墓参りの人も来ません。静寂がお寺を覆っています。
江戸時代に流れ大工の作った山門が時代の変化を見つめているだけです。
お寺の住職の役割とは何でしょうか?

そんなことを考えていたら今朝の読売新聞の31ページに福島原発の爆発で放射能の灰を浴びた地蔵院というお寺の住職の石黒有高(37歳)さんのことが紹介されていました。
福島原発から10km以内にあった地蔵院の家族と檀家の人々は全国に散りぢりに避難しています。自分達は水戸の仮設住宅に避難しました。
そして各地に避難した檀家の法事にはお経をあげるために、どんなに遠方でも車を運転して必ず行くそうです。
そんな檀家の一人のおじさんが避難先で亡くなりました。石黒有高さんが幼少の頃に親切に遊んでくれた懐かしい近所のおじさんです。そのおじさんのお葬式をすませ、遺骨を車に乗せ福島の地蔵院にある墓に埋葬するため帰りの車を走らせます。車の中で石黒さんは遺骨に話かけます。
「おっちゃん、帰ろうか」 

さて東日本大震災では被災地にあるお寺は人々の避難所になりました。そして少し落ちついて来たころには犠牲者の遺体の安置場所になりました。住職さん達は宗派にとらわれず連日、連夜、お葬式を続けたのです。
この様子は宮城県の曹洞宗の住職の浄心さんの趣味人倶楽部の日記に書いてあります。その趣味人倶楽部というSNSでの浄心さんの仮の名は桃太郎です。
その桃太郎さんの日記は、『破戒坊主』桃太郎の日記、趣味人倶楽部(https://smcb.jp/diaries/7578622 )からご覧になれます。
上に、「お寺の住職の役割とは何でしょうか?」と書きました。
住職さんの役割は檀家さん達のお世話をするだけで良いのでしょうか?
そうではありません。
お釈迦さまの教えを深く理解し、それを人々に伝えるのも住職の重要な役目です。
上で紹介した浄心さんはこれもきちんと行っています。
厳寒の12月に8日間続けて座禅をしてお釈迦さまの教えを深く理解するのです。これを曹洞宗では「臘八摂心会」と言います。
それを浄心さんと檀徒の「又やん」と以前の弟子の元照さんの3人だけで行ったのです。
その様子は以前の私の記事、「お釈迦さまの教えを深く理解するためには宗教的訓練が必要」(2017年01月15日)に紹介してあります。

何故、私は浄心さんをことさら取り上げて、ご紹介するのでしょうか?
理由はたった一つです。彼は時々お釈迦様を疑いながら、それでもお釈迦様を信じているのです。信じようとして毎日の修行に励んでいるのです。お寺の財産は竈の灰まですべて檀家の物だと考えています。お寺の会計は檀徒に任せているのです。しかしお金を稼ぐためにお葬式で読経します。しかしそれはお金を得るための行為であり宗教活動ではないと明言しています。こんな住職さんが沢山いれば寺院仏教も衰退しなかったと思います。

今年はじめての海岸禅寺の梅の開花の写真から随分と話がそれてしまいました。いつもの癖なのでご寛容下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


絶滅寸前のヨーロッパの少数民族(6)絶滅する必然的な3つの理由

2018年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム
少数民族の文化を大切にし地球を豊かな多様な文化のある惑星にしよう。少数民族も他民族と平等な権利を有し、幸せに暮らせるようにしよう。博愛主義が全ての少数民族へも行き渡るようにしよう。これらは全て理想に過ぎません。
客観的に観察すると少数民族を取りまく現実は過酷なものです。
私は少数民族のことをいろいろ調べていますが、現実は厳しく、彼等は近い将来絶滅するという悲観的な考えを持っています。
その絶滅する理由は3つあると思います。
今日はまずこの3つの理由を書きます。そして絶滅しそうな民族の実例として6つのロシアの少数民族の写真をご紹介したいと思います。
(1)少数民族は周りの多数民族に比べて圧倒的に貧しい。
少数民族は孤島や奥深い山岳地帯や北極に近い極寒の地に生き残っています。オーストラリアの乾燥地にいます。南米のアマゾンなどの深い森の中に孤立しています。アフリカの奥地にいます。
全て辺境な土地で生活条件は過酷を極めます。他国の工業の発達や経済成長に完全に取り残されています。
当然、少数民族は他民族に比べると圧倒的に貧しい状態にあります。
(2)少数民族は自分固有の言語や伝統文化を捨て経済的に豊かな生活をしようとします。
この結果、少数民族の言語や文化は内部から崩壊するのです。
例えばカナダ北部のイヌイット族は英語を勉強しカナダやアメリカの会社に就職します。アザラシ猟で不安な生活を続けるよりも格段に生活が楽になります。若者達はイヌイット族の村を出てカナダ本土やアメリカに移住し、村には老人だけが残ります。
少数民族が少しでも経済的に良くなろうとするのを、誰に止める権利があるのでしょうか?
アメリカに移住したイヌイット族はそこでアメリカ人と結婚して子供をつくります。こうしてイヌイット族は自然に消滅して行く運命にあるのです。
このような貧しさ故の少数民族の内部からの崩壊は世界中で見られる現象です。
これを悲しむのは経済的に恵まれた人々の感傷に過ぎません。迷惑な感傷です。
(3)周囲の多数民族の同化政策と圧迫により少数民族の言語や文化は外部から崩壊させられる。
卑近な例は北海道のアイヌ民族です。江戸時代までは北海道はアイヌ民族の土地でした。南端の松前藩は別でしたが。
それが明治になって政府は北海道のアイヌを差別しながら同化させるために「土民法」という法律を作り、アイヌ民族を日本国民として組み入れる政策を進めたのです。この同化政策にもかかわらず、終戦後まで北海道のアイヌ集落は存続していたのです。
しかし戦後の日本の経済成長に従ってアイヌ民族の数は急速に減少したのです。
有名なアイヌ人の萱野茂さんが(1926年 - 2006年)二風谷アイヌ資料館を創設し、参議院議員(1994年から1998年)になったのは有名な話です。そして参議院の委員会で史上初のアイヌ語による質問を行ったのです。それにもかかわらずアイヌ民族は衰微して行くのです。
このような例は世界中にあります。世界の先進国は自国内の少数民族の保護政策を実施していますがなかなか効果が上がらないようです。
上記の(3)の理由は排除出来ますが、(1)と(2)の理由を排除することは至難の業なのです。

以下では絶滅しそうな民族の実例として6つのロシアの少数民族の写真をご紹介したいと思います。
写真は次のHPからお借りしました。
『マンシ、コリャーク、ンガナサヌィ… ロシアの絶滅しそうな少数民族』http://osoroshian.com/archives/37793045.html

マンシ族、ハントィ族、アルチ族などは絶滅しそうな民族です。よく考えると、数少ない民族を絶滅させないようにすることは、絶滅しそうな動物を守るのと同じくらい難しいものです。この記事ではロシアの絶滅しそうな民族を紹介します。
ロシアには独自の言葉と文化を持つ民族がおよそ200あるそうです。国勢調査によると、民族によって10人しか残っていない民族もいるのです。その10人がいなくなると同時に彼らの知識と文化も消えてしまうのです。それでは写真を示します。

1、マンシ族はハンティ・マンシ自治管区の先住民である。ハントィとは近い親戚。現在、およそ12,000人がロシアで暮らしている。

1番目の写真はマンシ族です。

2番目の写真はマンシ族の夏の風景です。

2、コリャーク族

3番目の写真はコリャーク族です。
犬ぞりのマッシャー(乗りて)はイルピリ村の住人です。
カムチャッカの北部に暮らすこの民族は現在6,000人しかいない。世界で最も北に住む民族の一つ。

3、ンガナサヌィ族

4番目の写真はンガナサヌィ族です。
この民族はクラスノヤルスク州のタイミル地方に住む。ユーラシアの一番北で暮らす民族だ。860人。自称は「ニャ」(友という意味)

4、ドルガヌィ族

5番目の写真はドルガヌィ族です。
テュルク諸語を話す民族の中で世界で一番北に住む民族。ロシア正教を伝えたコサックたちはドルガヌィ人に自分達の苗字を与えた。クドゥリャコフ、ジャルコフ、チュプリン、ポロトフ等。その苗字は今でも残っている。
現在8000人以下。クラスノヤルスク州とサハ共和国で暮らしている。

5、テレウトィ族

6番目の写真はテレウトィ族です。 西シベリアの南の遊牧民から出てきた民族で現在ケメロヴォ地方に住んでいる。

6、イテリメン族

7番目の写真はイテリメン族です。カムチャッカのインディアン。「イテンメン」(「ここに住んでいる」)という名前の発音が変化しこの様な呼び方になった。

それにしてもこの21世紀にもなってもロシアだけでも多数の少数民族が生きていることに驚きます。奇跡のように思われます。
彼等が何時までも幸福に存続することを祈らざるを得ません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)