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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

伊澤孝平著、「そういう時代の旅と人」(4)ミラノ、ヴェネチャ、ローマ、ヴァチカンに魅了される

2013年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム

伊澤孝平著、「そういう時代の旅と人」ではイタリーについてかなりのページ数を使って訪問した各地の歴史を詳細に紹介しています。

博覧強記でもあり歴史観が自分の身についているので、訪問先の観光地が生き生きと描き出されているのです。

特に感動的だった部分はローマ時代の政治、商業の中心広場、すなはちフォールムに立って、帝政ローマの栄枯盛への思いを馳せた部分です。

「・・・このフォールムは嘗てローマの盛時にあっては、政治上又は宗教上の大廈高楼が聳え、公共建築が軒を連ねていたのである。殊に帝政時代には、最もその豪壮を誇ったのであるが、紀元後三世紀の終葉頃大火に見舞われ、更に五十年後にはその荒廃を著しくし、ローマ市の衰退と共に、このフォールムも荒廃の一途を辿ったが、かてて加えて蛮族の侵入、地震などの災害も重なって、完全に廃墟として埋没し去ったのである。永い間、嘗ては大理石の敷き詰められていた床の上に、雑草が繁茂して、家畜の遊歩場と化していたが、一八七0年以来、イタリー政府の尽力で、発掘事業が開始され、二十世紀の初頭に至り、フォールムの全貌は、初めて日の光に浴することとなった。

このフォールムの中に、夕焼けと半月とを天空に眺め乍ら、私は立った。円柱の一本一本、敷石の一つ一つ、柱石の一基毎に、二千年の歳月の流れを感じる。

・・・昔日の儘だという泉があって、清冽な水が滾々と湧いているのを見たときは、二千年の歳月が急に短縮せられて、ローマの昔が昨日のことのように思われたりした。・・・・」

上の文章を読むと、ローマの人々の驕りと悲運が目に見えるようです。下に復元されたフォーラムの写真を示します。

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ローマのフォーラム(政治、商業の中心広場)の上の写真の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/igayaanna/27642860.html です。

イタリーへはスイスのチューリッヒ、ローザンヌ、ジュネーブに泊まり観光した後で、北イタリーの湖水地方を列車で通りミラノに入りました。下にその湖水地方の風景写真を示します。

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・この上のイタリア北部のガルダ湖の写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%80%E6%B9%96です。

ミラノでは有名なミラノ大聖堂を見物し、その建築物や彫刻の作者や歴史的事実を詳細に書いています。以下は伊澤氏が感動して、詳細な見聞記を書いているミラノ大聖堂の写真です。

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上の写真の出典は、http://oasis.halfmoon.jp/extphoto/ita_main.html です。

そして下にミラノ大学の写真を示します。

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上のミラノ大学の写真の出典は、http://41893773.at.webry.info/200908/article_32.htmlです。

イタリーではミラノ、フェレンツェ、ナポリ、ローマ、ヴァチカン、ナポリなどを丁寧に見て回ります。下にナポリの写真を示します。

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・上のナポリの風景写真の出典は、http://www.tripadvisor.jp/Tourism-g187785-Naples_Province_of_Naples_Campania-Vacations.htmlです。

伊澤孝平著、「そういう時代の旅と人」を読んで驚嘆したことは著者の教養の深さです。ヨーロッパの歴史に詳しいのです。その上で旅行記を書いているのでその内容が現在でも役にたつのです。

現在はブランド物の情報やグルメ情報は豊富に持って観光旅行に行く人々が多いようです。しかし伊澤孝平氏のような歴史的教養を持って観光に行く日本人は少なくなりました。

それも時代です。そんな時代になってみると、伊澤孝平著、「そういう時代の旅と人」という本は実に貴重な存在になります。

このブログでもイタリーに4年間も住み込んだ竹内義信氏の連載記事も掲載してあります。以下のような連載記事をクリックして、お読み頂ければイタリー理解が一層深まると思います。

竹内義信著、「イタリアの魅力とその混沌」(1)その魅力のいろいろを纏めてみました

竹内義信著、「イタリアの魅力とその混沌」(2)社会の混沌ぶりと犯罪の多発

竹内義信著、「イタリアの魅力とその混沌」(3)イタリアの地域主義

竹内義信著、「イタリアの魅力とその混沌」(4)確かな仕事をするイタリア人管理職

竹内義信著、「イタリアの魅力とその混沌」(5)イタリア料理の知られざる世界

(続く)


白樺派と武者小路実篤の邸宅跡の記念公園

2013年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム

天気さえ良ければ車であちこちの公園を訪問しています。老境の楽しい日課です。気が付いてみると東京は実に数多くの公園があり、よく整備されています。

特に都立公園は伊豆七島から奥多摩の桧原村まで無数にあり、必ずのように駐車場もあり広大です。その上、都下の市町村には市立公園も多くあるのです。

昨日は東京都下の調布市の市立公園の実篤公園に家内と行ってきました。

白樺派の代表的存在だった武者小路実篤氏が晩年の20年間住んでいた邸宅跡を公園にしたものです。敷地の一角には「武者小路実篤記念館」もあります。

そこで撮ってきた写真をご紹介する前に、まず白樺派や武者小路実篤氏のことを簡単にご紹介したいと思います。

白樺派を簡単に言ってしまえば明治維新以後の富国強兵の社会にほんの一時期その緊張がほどけ、文化的な雰囲気が社会に流れた社会現象と言えます。

白樺派が風靡した時代は明治末期から大正時代でした。

日清戦に勝ち、日露戦争でロシアを破り、第一次世界大戦では戦勝国側についた日本が一息つけたのが1912年から1926年の大正時代です。

戦勝気分で、気持ちの上に余裕の出来た人々が芸術を愛したり、人間愛を賛美し、人生を謳歌したのです。

そんな頃、学習院の卒業生たちが武者小路実篤を中心にして「白樺」という同人雑誌を作ったのです。

武者小路実篤、志賀直哉、里見弴、有島武郎や長与善郎などが、人間賛歌,理想主義、楽天主義の作品を発表したのです。ロシア文学の影響も強かったのです。

またロダンやルノアールやセザンヌやゴッホ、そしてゴーギャンなどの西洋の美術を賛美し、日本へ紹介したのです。

それに賛同した梅原龍三郎、岸田劉生、中川一政などの画家が雑誌、「白樺」の装丁をしたり、文章を寄稿したりして協力しました。

このように「白樺」を中心にして集まった作家や画家の一派を白樺派と言います。

武者小路実篤氏をはじめ彼等の良い点は何と言っても人間の自由、個人の尊厳、そして平等などを歌い上げたことにあります。現在の日本の民主主義へつながる考え方を提示したことは大いに評価すべきでしょう。

しかし悪い点は、彼等がみな学習院出の上流階級だったことです。実社会の苦しみを知らずして理想だけを振り回していたことです。その理想主義の声は、苦しい生活を強いられたいた大多数の人々の耳には届かなかったのです。

東北地方の農村は冷害で苦しみ、都市の労働者は夜遅くまでの重労働にあえいでいたのです。白樺派は地に足がついていなかったのです。逆さから読んで「ばからし」などと冷笑されたこともありました。

やがて武者小路氏をはじめ白樺派の人々はやがて日本の軍国主義化に飲み込まれてしまったのです。

しかし戦後も、武者小路氏だけはその仏教的な人生訓や格言を素朴な絵画に添えた色紙が人気を博し、日本中でよく売れたのです。その上、彼が理想社会の実現として大正7年に創設した「新しい村」は戦後の入植者の増加によって活性化し、世の評判になったのです。

その武者小路実篤氏が戦後20年間住んでいた調布市の邸宅跡が記念公園になっているのです。彼が住んでいた頃は、武蔵野の原野が農地の間に散在していたのです。その昔の武蔵野の自然を残したのが実篤邸であったのです。邸内には湧水もありがいくつも野池が落ち葉を浮かべて静もっていました。

下にその様子を撮った写真をお送りいたします。

なお余談ながら、白樺派の絵画や雑誌、「白樺」を展示している美術館が山梨県の北杜市の清春白樺美術館なのです。この清春白樺美術館は小生の山の小屋の近辺にあるので何度も訪問しています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

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