後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

神近義邦さんが作ったハウステンボスに何故オランダ独自の文化が無いのか?

2013年04月19日 | 日記・エッセイ・コラム

Img_5655

今週の月曜日にハウステンボスを6時間かけて遊び歩きました。

天気も良くそれは楽しい体験でした。しかし非常に不思議な気分になりました。どの建物にも、どのアトラクションにもオランダ独自の文化や宗教が感じられないのです。楽しいのは確かですが国籍不明のヨーロッパ文化が脈絡も無く混じっているのです。

皆様へお願い致します。ヨーロッパのある国に「日本村」というテーマパークがあったとご想像下さい。そこを貴方が訪問したとします。建物や町並は確かに江戸の町です。しかしアトラクションや供される食べ物が中国、韓国、ベトナム、インドネシアなどのものが混然と出されているのです。

それを見て貴方は楽しいでしょうか?

私はハウステンボスを楽しみながら、一方ではもしオランダ人が訪問したらどんな感想を持つか心配になっていました。

そこでハウステンボスを創業した神近義邦さんのことを調べてみました。

それで納得したのです。

彼は1979年にヨーロッパ出張に行き、そこで偶然見たオランダの風景に何故か感動して、その風景をテーマにした「オランダ村」を1983年にオープンしたのです。テーマはオランダの風景のみだったのです。建物や運河の風景は広い意味での文化です。しかし狭い意味での文化を芸術、宗教、哲学と定義するとそれらは風景を見ただけでは一向に分かりません。

神近 義邦(かみちか よしくに)さんは 1942年8月21日生まれで、長崎オランダ村ハウステンボス代表取締役社長を歴任しています。

出身地は現在の長崎県西海市西彼町です長崎県立西彼農業高等学校定時制を卒業後、1962年に西彼町役場へ就職し、農業指導を担当して実績を上げた方です。長崎県庁出向(1971年1972年)後、1973年3月町役場を退職しました。その後、西彼町内の土地買収問題がきっかけとなって関係が生じた東京永田町の料亭「一條」の経営再建に手腕を発揮したのです。

1979年のヨーロッパ出張時にオランダ村の原型となる計画を発想したそうです。その後、自らの観光果樹園を基礎として1980年に開園した長崎バイオパークからほど近い国道202号線沿いの生簀料理店を全面改装する形で、長崎オランダ村を1983年7月22日にオープンさせました。

長崎オランダ村は順調に観光客を集め発展してましたが、長崎県は折しも総工費約150億円をかけ造成したものの分譲が進んでいなかった針尾工業団地の利用をもちかけたのです。県幹部からの打診に神近は素早く反応、日をおかずして現在のハウステンボスにつながる計画の素案をまとめた。

ハウステンボスは1992年にオープンしました。初年度から佐世保市内はもちろん九州でも最大級の集客実績を上げたが、建設時のこだわりも一因となった莫大な初期投資(約2,200億円、当初予想の約2倍にまでなった)が負債となってのしかかって来たのです。

また、将来的には人口3万人が定住する都市をつくるという構想で作られた別荘もなかなか買い手がつかず苦しい経営が続いたのです。

そしてバブル崩壊から続いた景気後退が集客減少を招き、ハウステンボスの経営は次第に悪化しました。

2000年6月、神近は興銀に債権放棄を要請、それと引き換えにハウステンボス社長を辞任し、経営から身を引いたのです。その後ハウステンボスは興銀主導での再建を模索したが、2003年2月に会社更生法の適用を申請しました。

(以上の経緯の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%BF%91%E7%BE%A9%E9%82%A6です。)

その後、澤田秀雄氏が経営を引き受けてから一気に黒字になり現在に至っているのがハウステンボスの歴史なのです。彼は18年間赤字だったハウステンボスを奇跡的に1年で黒字にした人として有名になりました。

以上のような歴史を見るとハウステンボスに何故オランダ独自の文化が感じられないか、その理由が明快に分かります。

創業者の神近義邦さんはオランダの風景以外の文化に関心が無かったからです。ヨーロッパの国々の文化の相違を完全に無視したからです。

「楽しければ何でも良い!」という思想が日本では流行なのです

そんな些細な事を考え込んでいる私は歳をとり過ぎたのでしょう。嗚呼。

Img_5684


日本三大稲荷の祐徳稲荷神社とその日本庭園

2013年04月19日 | 写真

京都の伏見稲荷神社、愛知県の豊川稲荷神社、そして佐賀県、鹿島市の祐徳稲荷神社が日本の三大稲荷というらしいです。4月15日に訪れました。

神社そのものが山の中腹にあります。壮大な構造になっています。

階段をえんえんと登るのが大変でした。懸造りの本殿は流石に豪華な造りでした。お賽銭を入れて参拝のあと階段を下ります。

すると下にはよく手入れの行き届いた日本庭園があり、ボタンやシャクナゲやシャガが満開になっていました。

写真をお楽し頂ければ嬉しいです。

Img_6378_2

Img_5487

Img_5511_2

Img_5501

Img_5515

由緒:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%90%E5%BE%B3%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE

鹿島藩主鍋島直朝夫人で、後陽成天皇の孫・左大臣花山院定好の娘の萬子媛が、朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請したのに始まる。萬子媛が嫁ぐ際、父から稲荷大神の神鏡を授けられていた。貞享4年(1687年)、石壁山に社殿を建立し、萬子媛自ら奉仕していたが、宝永2年(1705年)、石壁山窟の寿蔵にて、断食して入定を果たした。以降、萬子媛の諡名から「祐徳院」と呼ばれるようになり、祭神の稲荷神とともに萬子媛の霊験により信仰を集めた。

明治の神仏分離により仏式の行事を廃し、祐徳稲荷神社に改称した。その際、萬子媛が入定した寿蔵は境内社の石壁神社とされ、萬子媛に「萬媛命」の神号が贈られた。

現在の本殿は、昭和初期に建て直されたものが昭和24年(1949年)に焼失したあと、伊勢神宮造営局長の角南隆が設計して昭和32年(1957年)に再建されたもので、3代目である。主要建物は総漆塗りである。

斎藤茂吉や野口雨情も祐徳稲荷神社を詠った詩を残している。

錦波川を境として西側に本殿、神楽殿、楼門がある。楼門から北側には参集殿、更にその北側には日本庭園がある。境内入口より北から祐徳バス門前出張所(祐徳神社前バス停)までの間の参道には門前商店街が軒を並べ、その北端には3000台が駐車できる無料駐車場がある。錦波川東の駐車場脇には神社が所蔵する美術工芸品や鎧・刀・鹿島錦など郷土の資料を展示した祐徳博物館が設置されている。


戦後の日本人の自虐趣味の誤り(2)自虐趣味を起こした複雑な国際関係

2013年04月19日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新以来一度も挫折したことの無かった大日本帝国が1945年8月15日に瓦解しました。日本人は茫然とし、自信を失い、やがて何故そうなったのかを考え出しました。それは人間の自然な心情です。朝鮮を合併し、中国を侵略し、南洋にあった欧米の植民地を占領したことを後悔するのも自然な心情です。

しかしその後で日本軍の残虐行為を誇大に書きたてて日本人をおとしめるような「自虐趣味」は何故起きたのでしょうか?

そのことを考える前にフランスを侵略し、モスクワ近郊まで席巻したヒットラーのドイツが瓦解したときドイツでは「自虐趣味」が何故起きなかったか考えて見ましょう。

1970年に私はシュツットガルト市にあるマックスプランク研究所に1年いました。その間、同僚のプルッシュケル氏と戦争のことを何度も話し合いました。

彼は静かに言うのです。ロシア侵略でドイツ軍は2000万人のロシア人を殺した。逆襲してきたロシア兵がプルッシュケルさんの住んでいた村の住民を皆殺しにした。家族もみな殺された。少年だった自分だけが納屋に隠れていて生き延びたのです。

彼は決してロシア兵を非難しません。ヒットラーの悪口も言いません。ドイツ人をおとしめるような事は一言半句も言いません。ただ静かに、「それが戦争というものです」と悲しそうに言うだけでした。

戦争が終わってから自分の国の人々や相手の国の人々を非難することの愚かしさをプルッシュケルさんは信じていたのです。彼は本物の人間でした。インテリとしての誇りを持っていました。

さてそれはそれとして、それでは何故、日本では「自虐趣味」が蔓延したのでしょうか?その原因は以下のように幾つもありました。そしてその原因同士が複雑に作用し合って起きた日本固有の社会現象だったと私は理解しています。

(1)中国共産党が強大な日本軍を打ち破って「中華人民共和国」を作り上げたという歴史的事実があります。

日本軍の残虐行為は共産党の独裁維持のため続行しなければならない政治宣伝なのです。宣伝効果を上げるために残虐行為は次第に大げさになって行きます。残念ながら、これも人間の自然な感情です。

(2)日本を占領したアメリカが日本の真珠湾攻撃を卑怯だと何度も日本人を攻撃しました。そしてフィリッピンのバターン死の行軍を残虐行為と非難します。その上、九州大学で行ったB29搭乗員の生体解剖の事実を残虐だと非難しました。

(3)イギリスも泰緬鉄道の建設の際、日本軍がイギリス兵を酷使したと非難し、映画まで出来ました。

(4)戦後、日本に残留した韓国人や北朝鮮系の人々が戦争中に日本人から受けた非道な取扱いの意趣返しに、強制連行や強制労働をさせられたと誇大に書きたてたのです。それも人間の心情として自然なものでしょう。

(5)そしてこれが日本固有の現象ですが、日本のインテリや評論家や作家が自責の念のあまり戦前の日本軍の残虐行為を書きたて、自分だけが罪を逃れようとしたのです。ようするに本物の人間やインテリではなかったのです。

戦争中は彼等も日本軍の連戦連勝を喜んでいたのです。真珠湾攻撃に喝采していたのです。少なくとも少年だった私は日本軍の連勝を嬉しく思っていました。

本物のインテリなら上に書いたドイツ人のプルッシュケルさんのように、「それが戦争というものです」とだけ言って、悲しそうにしているべきなのです。それは自分を正当化しているのではありません。自国や他国を非難しているのでもありません。

黙して語られないのです。本物の人間ならそうあるべきなのです。

そういう立場に近かった日本人は永井荷風でした。真珠湾攻撃にも興奮せず、何時ものように遊んでいたと言います。そして戦後、彼は一切の非難をしませんでした。

「黙して語らず」と通して死んでいきました。

このような有名人だけでなく黙して語らなかった人々は多かったのです。

卑近な話で恐縮ですが私の父の弟は徴兵され、南方戦線で飢餓で苦しみ、苦しい戦いをし、生き延びて帰ってきました。その叔父は一切戦争の話はしませんでした。何か深い考えがあるようで戦争に関する質問が出来ませんでした。

次回以降、上に書いた(1)から(5)について少しいろいろな角度から考えみたいとて思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)