後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

佐世保、九十九島の景色をお楽しみ下さい

2013年04月17日 | 日記・エッセイ・コラム

海軍の基地、佐世保港を囲むように西から沖に突き出た北松浦半島の西側の海には208個の島々が連なり風景が良いので、「九十九島」という名前の有名な観光地になっています。宮城県の松島のような風景です。透明な海と松の間に萌え出した新緑に、日本の風景の美をあらためて感じました。

その島々の間を丁寧にめぐる観光船で1時間ほど楽しんできました。4月16日の午前に撮った写真です。

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下は観光船の桟橋の奥にあるヨットの係留地です。

静かに舫っているヨットの姿は美しいものです。風の強い日にセイルを上げて走るときは船体を傾けて猛スピードで走る船なので、静かな姿が一層感慨深く感じられます。

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国宝 大浦天主堂などキリシタン教会群が世界遺産へ!

2013年04月17日 | 日記・エッセイ・コラム

4月14日、15日、16日と長崎と佐世保への旅に行って来ました。

訪れた所は国宝の大浦天主堂、ハウステンボス、佑徳稲荷神社、九十九島、そして平戸島でした。

10年ぶりに長崎市やホウステンボスに行ってみると時代の変化を感じます。

長崎県は県をあげて国宝、大浦天主堂などキリシタン教会群を世界遺産へする大々的な運動を展開していました。

ハウステンボスは18年の赤字経営を黒字にしたために子供連れ家族向けのアミューズメントパークになっていました。大人も楽しめますが、おもに子供連れをターゲットにしている感じです。

そんな旅のつれづれに感じたことを数回にわたってお送りしたいと思います。

さて1865年に建設された大浦天主堂は戦前から教会建築唯一の国宝です。

個人的には日本のカトリックの本山と私は勝手に思い込んでいます。勿論、カトリックの本山はバチカンです。世界の全てのカトリック教会はローマ法王の傘下にあり、本山はバチカン以外にはありません。

今回は大浦天主堂に2時間くらいいましたので、お祈りもしました。そして右裏の旧神学校でのキリシタンの踏絵やマリア観音などの展示を見ました。コルベ神父の特別展も見ることが出来たのです。

それらの写真はいずれ掲載しますが、今日は日本最古の教会の大浦天主堂の写真をお送りいたします。

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上は1865年建設の大浦天主堂で、原爆投下の被害も少なく原型をとどめています。戦前の法律で昭和8年に現在の国宝相当の重要文化財の指定を受け、戦後の法律では国宝に指定されました。

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上は祭壇の写真です。

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天主堂は狭い丘の上に立っていて周りには土地がありません。斜めからの写真を撮ろうとしても接近し過ぎていて上のような構図しか撮れません。

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天主堂の右手に上がると少しばかりの平地があって昔のセミナリオ(神学校)のあった所にでます。

そこから天主堂の側面を撮ったのが上の写真です。

復元した神学校ではキリシタン時代の踏絵やメダイやマリア観音像の展示があり、さらにコルベ神父の特別展がありました。アウシュービッツ収容所で他人の命の身代りになって処刑された神父さんで、その以前に長崎で活躍していたのです。1881年にヨハネ・パウロ2世が長崎に巡礼の旅をした時もコルベ神父ゆかりの建物も訪問しました。

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上の赤レンガの建物は昔の司祭館や神学校として使っていた建物です。遠方の塔は現在のカトリック大浦教会です。

国宝の大浦天主堂で毎日ミサをあげていたら観光客が出入り出来ないと思って新しく1975年に造ったらしいです。

さて国宝、大浦天主堂などキリシタン教会群を長崎県は何故、世界遺産としてユネスコに承認して貰おうとして県民上げての大運動をしているのでしょうか?

長崎県は1549年のザビエルの来航以来、そこが西洋への窓口として重要な役割を果たしました。それは日本の近代化の準備期間として大きな貢献をしたのです。

単にキリシタン関連の教会を世界遺産にして観光客を呼び込もうという考えだけではないと思います。

長崎県は大浦天主堂だけでなく平戸島や五島列島の全域に散在するキリシタン関連の教会や聖地を世界遺産にしようとしています。

下にその分布の様子を示す図を掲載します。

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(出典:http://www.pref.nagasaki.jp/s_isan/bunpu/)そして下はミサの光景です。

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帰りに長崎空港で見たのですが、大浦天主堂などキリシタン教会群が世界遺産にするためのビデオの放映が行われているのです。

カトリックの宣伝を公にしているのです。ああ、流石隠れキリシタンの邦の長崎だなあと心豊かになって飛行機に乗りました。

尚、大浦天主堂などキリシタン教会群が世界遺産への運動のHPは、http://www.pref.nagasaki.jp/s_isan/isan/list1.htmlにあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料===============

世界でも類を見ないキリスト教の歴史

日本におけるキリスト教はフランシスコ・ザビエルによって伝えられ、西日本を中心に急速に広がりました。最初のキリシタン大名、大村純忠によりイエズス会に寄進された長崎は、日本におけるキリスト教布教の中心となりました。多くの教会や関連施設が建てられ、南蛮貿易の中心地としてキリシタン文化が華開きました。その繁栄ぶりは、当時の記録に「日本における小ローマ」として記されています。またキリシタン大名、有馬晴信が所領していた島原半島南部には日野江城下にセミナリヨがおかれ、大名の子弟らが西洋文化を学びました。ここで学んだ天正遣欧使節の4人の少年たちは海を渡り、ローマ教皇に謁見を果たし、ヨーロッパ世界に日本を知らしめました。

全国統一を目指す豊臣秀吉は、「伴天連(ばてれん)追放令」を発して長崎を直接支配し、1597年には宣教師やキリシタン26人を処刑しました(26聖人殉教事件)。これに続く徳川幕府も1614年に禁教令を発し、キリスト教弾圧が本格化します。そのため当時長崎にあった教会もすべて破壊されてしまいました。その後、1637年の島原の乱をきっかけに、鎖国が完成します。こうした状況のなか、ローマ教皇庁では日本のキリスト教は完全に根絶したと考えられていました。しかし、厳しい弾圧にもかかわらず、教会もなく神父もいないなかで、信徒たちは地下組織をつくり、潜伏してキリスト教の信仰を守り続けていました。また、信徒たちの中には信仰の継続のため、海を渡り五島列島に移住する者もいました。

ペリーの来航による開国を機に、パリ外国宣教会の神父たちが来日します。長崎でも、外国人神父により居留地に大浦天主堂が建設され、1865年献堂式が行われました。その数日後、浦上の信徒十数名が現れ、プチジャン神父に信仰を告白します。これが世界宗教史上の奇跡と呼ばれる「信徒発見」です。この「信徒発見」の知らせは、世界中を駆け巡り、大きな衝撃と感動を与えました。禁教から250年もの間、信徒たちは自らで洗礼やオラショを伝承していたのです。その後、長崎港外の島々や外海、五島、平戸、天草に潜伏していた信徒たちも次々と神父の指導の下に入っていきました。
しかし、明治政府は幕府の禁教政策を引き継ぎ、「浦上四番崩れ」や「五島崩れ」など弾圧事件が起こります。信仰の自由が認められたのは、1873年、キリシタン禁制の高札が撤去された後のことでした。

1873年、禁教の高札が撤去されると県内各地に教会が建てられました。こうした歴史を経て建てられた教会は、九州の北西部に濃密な分布を示し、特に長崎県内には現在でも130以上の教会が点在しています。それらの教会の多くは潜伏して信仰を継承してきた地区などに、外国人神父の指導のもと、日本人大工と信徒が自らの財力と労力を捧げて造ったものです。信仰を守り続けてきた信徒の強い想いが込められた、まさに「信仰の証」です