令和4年1月9日(日)
シドニー・ポワチェさん死去
映画「野のユリ」で、黒人俳優として初めてアカデミー賞の
主演男優賞を受賞されたシドニー・ポワチェさんが亡くなら
れた。(享年94歳)
シドニー・ポワチェさんの両親はバハマのトマト農家だったが、
出荷先のマイアミで母の妊娠が判り、3カ月間米国に滞在
した。
1912年2月20日,此処で生まれたポアチェさんはアメ
リカの市民権を得た。
15歳の時生活に苦しむ両親の基を離れ、単身で渡米をして、
ニューヨークに渡り、様々なアルバイトをし貧困生活が続く。
その後年齢詐称をし入隊をしたが、、、、、除隊をする。
アメリカン・ニグロ・シアターに入団し、俳優を志す。
1945年、映画デビュー、、、、端役を続ける。
1955年、「暴力教室」での生徒役の演技を注目される。
1958年、「手錠のままの脱出」で主演のトニー・カーテイス
と共演、カーテイスと共にアカデミー主演男優賞にノミネート。
1950年代のハリウッド映画界で黒人が主要人物を演じるのは
稀で、注目をされた。
それ迄は黒人俳優は労働者や悪役の端役でしか出演の機会がなか
った時代で在った。 そんな頃はウッデイ・ストロードの様な、
肉体を誇示しアクション映画で存在を高めた時代でもある。
ポワチェは演技と知性を要する役者として意識をするようになる。
1963年の「野のユリ」は社会派作品として注目された。
彼はアリゾナの砂漠を気儘に放浪の旅を続ける青年の役を好演し、
何とアカデミー賞の主演男優賞を黒人で初めて受賞した。
この作品は、ウイリアム・エドマンド・パレット原作の小説、
「Llies of the Field]を基に映画化した。
野のユリの由来は、新約聖書マタイ伝6章28節にある「野のユリ
が、どのように育つかをよく見なさい。骨を折る事も紡ぐ事もない。
あなた方に言っておく、栄華を極めたソロモン王でさえ、この花の
一つ程にも着飾っていなかった。」と、この喩えを映画の序章中で
青年からの賃金の要求を反らすシーンがある。 これがこの青年の
野のユリの如く成長していく、、物語の趣旨ではないか、、、、。
1964年にこの映画が日本で公開された。
日本は戦後復興をし、高度成長期への証として「東京オリンピック」
を10月10日より開催、24日に閉会式を迎えた。
この年の2月「第36回アカデミー賞授賞式」に於いて「野のユリ」
に主演したシドニー・ポワチェが主演男優賞を受賞した。これを機に
東京オリンピック閉会式の24日公開が決定され、その公開に合わせ
シドニー・ポワチェが来日している。
ハリウッド映画に於ける黒人俳優の地位を向上させたポワチェは、
1967年に「招かざる客」「夜の大捜査線」等をヒットさせる。
1969年、「失われた男」で共演した、ジョアンナ・シムカスと
結婚し、二女を授かる。内の一人、シドニー・ターニア・ポワチェ
は女優となり、後に「フリー・オブ・エデン」で父娘共演を果たす。
1972年、「ブラック・ライダー」を監督、その後7本の監督作品
を残した。
1997年には、大型テレビドラマ「マンデラとデクラーク」で、
南アフリカのアパルトヘイト問題に対峙したネルソン・マンデラ
の役を演じた。
2001年、アカデミー名誉賞を受賞、ポワチェの功績をアメリカ
白人映画界から敬意を贈られた。
2009年、当時のオバマ、アメリカ大統領から「大統領自由勲章」
を彼に与え、栄誉を讃えた。
後にバハマ駐日大使に任命され、政界進出を請われたが拒んでいる。
また、惜しい役者さんが逝かれた。
後継者としてデンゼル・ワシントン等が活躍するが、未だ未だ白人
優先のアメリカ社会、、、彼の様に粘り強く、貫き通す人が欲しい
(折りを見て、映画「野のユリ」を紹介したい、、)
今日の1句(先年亡くなられた人間国宝の)
松過ぎて年始まはりの役者かな 中村吉右衛門