『イスラム国』による日本人人質殺害は、私たちに様々な問いを突き付けました。
私にとっての大きな衝撃は、『殺害』される直前の後藤健二さんの姿です。死を前にした時の立ち振る舞い、心の在り方は、生き様を問われる究極の局面。私自身も武装勢力に拘束されたらどうするか、どうあるべきか、何度も考え、シュミレーションをした経験があります。国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の同僚で任務中に銃撃されて亡くなった中田厚仁さんの最後の言葉は、交信用ラジオを通した"I’m dying"だったと言われています。お父様が「これで任務終了という意味だと思います」と雑誌のインタビューで語られているのを読み、紛争地域での活動は『いかに生きるか』とともに『いかに死ぬべきか』というテーマとも向き合うべき活動なのだと考えるようになりました。
後藤さんの最後の姿は、万一のことがあった時、できることなら自分はこうありたいと思っていた姿そのままだったと改めて感じます。魂のレベルの高さを感じました。
外国人の友人から「日本人はすごいね」「これがサムライ・スピリットなんだね」とのメールをもらいましたが、日本人がすごいというより、後藤さんが最悪の事態に対していかに準備ができていたかを示すものだと思います。
さて、昨夜、ニューヨークタイムスの記事に対する私のコメントをfacebookに載せたところ、様々な反響がありました。
昨日のfacebookとニューヨークタイムスの記事
" Departing From Japan’s Pacifism, Shinzo Abe Vows Revenge for Killings"という見出しは、私なりに翻訳すると『日本の平和主義から離れて殺害への復讐を誓う安倍晋三首相』となります。後藤健二さんの『殺害』を報じる映像に対して「償わせる」と宣言した安倍首相。私は9・11の後のブッシュ大統領の言葉と通じる危うさを感じましたが、案の定、米国の権威ある新聞に「復讐する」という言葉に解釈されて世界に発信されてしまいました。今日の参議院予算委員会では「法による裁きを受けさせる」意味と説明していましたが、一連の言動、表情や声のトーンからこのように解釈されたということでしょうか。英語版の声明は、"hold them responsible"、つまり「責任を取らせる」と曖昧になっているので、ニューヨークタイムスは独自の判断でこのような解釈をしたのでしょう。
法による裁きというと、イギリスのキャメロン首相の談話を送ってくれた友人によると、下記のような表現です。"Britain stands united with Japan at this tragic time and we will do all we can to hunt down these murderers and bring them to justice, however long it takes." 核心部分のbring them to justiceは、彼らを裁判にかけると明確です。
復讐という解釈をさせないためには最初から明確に表現しておくべきだったということですね。もし、全く意図と違うのであれば、厳重に抗議しなくてはなりません。一方で、テロと戦うパートナーとしての日本の存在を米国内の世論にアピールする為、ある種の共同作業でこのような記事になることを黙認した可能性もあります。
後藤健二さん、そして湯川遥菜さんが拘束されている間、メディア、そして野党は本格的な追及をしませんでした。人質の救出が第一ですから一定の理解はしますが、政府に対する建設的な批判や提案まで封印してはなりません。そして、最悪の結果になった以上、果たしてベストの対応ができたのか、厳しく検証する必要があります。私は、政府はほとんど有効な対応ができなかった印象を強く持っています。『テロに屈しない』姿勢を示すことは当然ですが、その上でイスラム国とは直接の連絡を取らず、交渉もしなかったことが『人命優先』のポリシーに適うものだったのか、国会での追及、そしてメディアの追及は不可欠だと思います。