中田武仁氏が逝去されました。心からご冥福をお祈り致します。
武仁氏との出会いは1993年4月11日。ご子息・中田厚仁氏の追悼式の場でした。厚仁さんが生まれた時に庭に植えた桜の一枝を持ってプノンペンに来られた武仁氏。壇上に立ち、毅然とした態度で英語でスピーチされた姿の気高さに、体が震えるほどの勇気と誇りを感じました。
『親おもう 心にまさる 親心 けふの音づれ いかに聞くらん』
吉田松陰が刑死した時の辞世の句です。「誰かがやらなければならないことがあるとすれば、僕はその誰かになりたい」そんな自らの意志を実現するため、平和な日本を離れ、カンボジアでももっとも危険なコンポントム州を志願して、若い命を散らした最愛の息子。知らせを聞いた気持ちはいかばかりかと思うと、私はもう、胸が詰まってまともに目を合わすことはできませんでした。それでもご挨拶しなければと思い、勇気を振り絞ってプノンペンでの研修期間中ルームメートとして過ごしたことなどを話しました。
柔らかいまなざしで私を見つめ、落ち着いた口調で言われた言葉、心に焼き付いています。「お世話になりました。おかげさまで厚仁も幸せな人生を送れたと思います。ありがとうございました」
その後、私の著書『心にかける橋』の推薦文を書いて頂いたり、何度か講演にも来て頂きました。『世界市民』としての生き方について、また、厚仁さんに影響を与えたポーランドでの経験などについての感動的なお話に、多くの私の友人、また学生も大きな影響を受けました。
1995年10月1日、私自身もカンボジア・カンポット州で武装集団に襲撃されたことがあります。命の終焉を覚悟した全身が凍り付くような恐怖、一瞬の後に実感した生きる喜び。それは自分にとって運命的な瞬間でした。自分の命が大切であると同時に、他人の命も同様に尊いのです。身近な人が命を奪われ、自分自身も命の危機に瀕した経験は、自分の使命を明確にしてくれました。平和の尊さ、戦争の悲惨さを伝え、平和構築に寄与すること-私の政治活動の原点です。昨年末に訪れたナカタアツヒト学校について報告できなかったことが未だに心残りです。
この写真は追悼式などでの遺影にも使われました。任地コンポントム州に向かう厚仁さん。私と握手した時の輝くような笑顔、忘れられません。(1992年9月8日撮影)
映像:『世界を変えた100人の日本人 カンボジアの民主化のために生きた若者 中田厚仁』
当時、阪口先生から国際協力や海外ボランティアなどを学んでいましたが、中田武仁さんのお話しは私自身に大きな勇気と励ましを与えてくれました。
中田武仁さんが亡くなられた報はYahooニュースで知りましたが、本当に残念でなりません。
心からご冥福をお祈りいたします。
そして同時に、阪口先生にとりましては恩師のおひとりである中田武仁さんを失い、悲しみも大きいことと思います。
しかし中田武仁さん、中田厚仁さん、そして阪口先生の教えを受け継いだ多くの教え子たちが、世界市民として様々な国々で活動を続けていることをどうか心に受けとめておいてください。