中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

国指定史跡「垂井の一里塚」(旧中山道を歩く 273)

2011年10月16日 10時29分14秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(広重描く浮世絵「垂井」)


(突き当たりに見える「西の見付」を広重は描いた)

(垂井宿4)
広重が浮世絵を描いた場所、「西の見付」を通り越して、
左に松島の稲荷神社の前を過ぎると、
東海道本線の踏み切りに突き当たる。
自動車は向こうから一方通行で、人は通ることができる。
すぐ左に「中山道」の案内と国史跡「垂井の一里塚」の案内があるから


(稲荷神社)


(一方通行出口の踏み切り)


(踏切を出たところ国道21号線をまたぐ陸橋)


(田舎に不似合いな一流企業の看板)

案内にしたがって踏み切りを進む。
対面から自動車が入ってくると道路が狭く危険を感じるので、
すばやく通り抜けよう。
抜け出た所が国道21号線で、歩道橋を渡って道路を横断しよう。
振り向くと(日本板硝子株)のブルーの看板が目に入る。
さらに進むと左角の金網の隅に(南宮江近道八丁)の石標があり、
南宮神社への近道を示す道標だ。
先を見ると中山道の道路突き当たりに林らしきものが見える。
垂井の一里塚であろうと見当をつける。


(「南宮江近道八丁」の石碑)


(突き当たりの林のある所が有名な一里塚と思われる)

一里塚の手前に「日守の茶所」の古い建物が左手にある。
垂井町の案内に寄れば、
(江戸末期に、中山道関ヶ原宿の山中の芭蕉ゆかりの地
(常盤御前の墓所)にあった秋風庵を、
明治になって一里塚隣に移築し、中山道を通る人々の休み場として、
昭和初めまで盛んに利用された。
また、大垣新四国八十八箇所弘法の札所とし、
句詠の場としても利用された貴重な建物である。)(垂井町)とある。


(日守の茶所)


(国指定史跡「垂井の一里塚」)

この「日守の茶所」の隣に国史跡「垂井の一里塚」がある。
南側の一基だけが残って、塚の頂に松の木が植えられている。
本来一里塚は南北両側に造られ、頂に榎が植えられていた。
北側の一基がなくなっているのはまことに残念である。
今まで中山道を歩いて、南北両方とも残っているのは僅か15基のみ。
これから何基あるのだろうか・・・


(垂井の一里塚2)

中山道にある国指定史跡として残る一里塚は、
東京都板橋区にある「志村の一里塚」とここの二箇所のみである。
また、「垂井の一里塚」は、残念ながら南側の一基だけであるが、
「志村の一里塚」は南北一対で残り、頂には榎が植えられて、
往時の原形をとどめている。
また「志村の一里塚」は、
現在、旧中山道を拡幅した国道17号線の両側にある。
道路は往時の中山道より広くなっているが、
一里塚は往時のまま動いてはいないと言われる。
ずいぶん幅広く建てられたものである。

もっとも、旧中山道上で一里塚の幅が広く取られているのは他にもある。
塩尻宿にある「平出の一里塚」がそれだ。
南塚は道路に面してあるが、北塚は民家の向こう側にあり、
双方の間はかなりの開いた間隔がある。


(平出の一里塚、これも松が植えてある。)


(道路を挟んで真正面にある北側の一里塚。民家の裏側にある平出の一里塚。)


(国指定史跡の「志村の一里塚」)