(垂井の泉)
(大ケヤキ)
(奥に湧き水が吹き出している見える「垂井の泉」)
(垂井宿3)
玉泉禅寺の山門脇に大ケヤキがあり、
その根元から水がこんこんと湧き出ている。
大ケヤキは樹齢八百年で、
県の天然記念物に指定されている。
あまり大きくなり過ぎたのであろう、
幹の途中 三箇所で伐ってある。
湧き出た水は池を巡って、
鯉が悠々と泳いでいてのどかそのもの。
泉の脇でお年寄りのおじいちゃんが、大根を洗っていた。
鯉が泳いでいる所にも水が噴出している所があり、
じいちゃんに、
「ここの水は本当に湧いているのですか?」と訊ねる。
「飲めるかということですか?」と逆に聞かれてしまった。
話が通じないので、そのまま
「ハイ」と受け流すと、
「飲むことは出来ませんが、野菜の洗い物ぐらいできますよ」と答えた。
お礼を言って会釈して帰ることにした。
大根はそのまま、洗いもしないで刻んで食べるのであろうか?
この湧き水「垂井」が、地名の起源になったという。
(「垂井の泉」湧き水の池)
ここ「垂井の泉」に松尾芭蕉も訪れたのか、
・葱白く 洗いあげたる 寒さかな
を残した句碑が、泉の左手に階段横にある。
(*)筆者注:長い間この俳句の葱をねぎと読んでいたが、
書き残した芭蕉の真蹟自画賛には、
・ねぶかしろく 洗いあげたる 寒さかな
となっており、「ねぎ」 でなく 「ねぶか 」が正しいことが判った。
(芭蕉句碑)
(街道らしい家並み)
(旅籠 長浜屋)
(油屋 卯吉家跡)
(本龍寺)
(明治天皇垂井御小休所の石碑と山門)
大鳥居に向って中山道に戻る途中も旧宿場らしい家が続く。
中山道を西に向う。
旅籠 長浜屋が右手に、ついで油屋宇吉家が左手にある。
道路を挟んで右手に本龍寺があり、
正面には「明治天皇垂井御小休所」の石碑があり、
立派な山門が見える。
このお寺の門や書院の玄関は元脇本陣のものを移築したという。
門を入って左手に本堂があり、本堂南、山門横の鐘楼の西側に時雨庵がある。
本堂と時雨庵の間に芭蕉句碑「作り木塚」もある。
垂井町教育委員会に寄れば、
(松尾芭蕉は元禄4年(1691)
この寺の住職 玄�彼(げんたん)(俳号 規外)と交友があり、
本龍寺に冬篭りして句を残し、
文化六年(1809)美濃派ゆかりの俳人傘狂(さんきょう)らの句碑を建て、
「作り木塚」と呼ばれている。
安政二年(1855)時雨庵ができ、
美濃派十五世園井化月坊ゆかりの芭蕉翁木像も
大切に保管されている。)とある。
芭蕉俳句集(岩波文庫)によると、
(真蹟懐紙に
美濃の国 垂井の宿 規外が許に冬籠もりして、
・作り木の 庭をいさめる しぐれ哉
とあり、
これが「作り木塚」と呼ばれるゆえんである。
(脇本陣から移築したという玄関)
(本堂、この左手に「作り木塚」はある)
(時雨庵)
(本堂と時雨庵の間にある「作り木塚」、右上が芭蕉句碑)
本龍寺を出て、中山道を進むと道はやや登りになっていて、
突き当りの形になる手前の左手が「西の見付」になる。
広重の浮世絵木曽海道69次の内「垂井」は、
ここ「西の見付」を描いたものという。
現在と往時を見比べて欲しい。
(財)中山道広重美術館によれば、
(図は、雨がそぼ降る中を大名行列が宿場に差し掛かるところである。
人々は道をあけて座り、
行列の通り過ぎるのを待つことになる。
左右の店は休憩所だが、
どちらの店にも錦絵がかかっている。
左の店には、山に林の印が見え、
これは版元である伊勢利の商標である。
――中略――
本図は、大名行列を真正面見た構図で、
遠近を意識した描写になっている。
左右の休憩所もほぼ対称になっていて興味深い。)とある。
(「西の見付」)
(広重描く浮世絵「木曽海道69次之内 垂井」)