![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/1c/bb6edb2f34868407c43942c5a086af91.jpg)
(背くらべ地蔵堂とその看板)
(武佐宿 6)
その先の交差点の左手に、背くらべ地蔵がある。
背くらべ地蔵ってなんだろうと説明文を読むと、
(この大小の石仏は鎌倉時代のもので、
中山道を行き交う旅人の道中を守ったと伝えられています。
また、当時は乳児がよく死んだので、
子を持つ親たちが、
「我が子もこのお地蔵さんくらいになれば、後は良く育つ」
と背くらべさせるようになり、
いつしか「背くらべ地蔵」と呼ばれるようになりました。)
(野洲町指定文化財)とある。
右手の小さな地蔵が「背くらべ地蔵」で
左手は阿弥陀如来立像である。
地蔵堂(小屋)の左には、
沢山の地蔵さまが旅人の道中を守って並んでいた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/32/a13163e1d6db67f66b9f5dda7d41fe0d.jpg)
(背くらべ地蔵尊右側の小さい方)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/ee/e3805869bda22ace23066bbc48aa7079.jpg)
(小屋の左に並ぶ地蔵群)
地蔵堂の奥には、行事神社の鳥居がある。
神社前の道路を隔てて向い側には小公園があり、
脇に水路が流れている。
水路脇の公園の一角に(行合の水辺修景整備)と題し、
山を背景に農耕を営む人たちのレリーフが埋め込まれている石碑がある。
その脇に、
(史跡・祇王井川
江辺庄に生まれた祇王(ぎおう)は故郷の水利が悪く旱魃に悩まされていることを、
「平清盛」に訴え、承安三年(1173)野洲川のほとりから、
琵琶湖野田浦に至る三里(約十二キロ)の間に水路を作らせました。
その恩恵を讃えて、この水路を「祇王井川(ぎおういかわ)」と名づけられました。
このレリーフは、当時の水路工事の風景を描写したものです。)とある。
(滋賀県野洲町)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/0d/990ce3e71614722ff2600930ef1014cd.jpg)
(行事神社の鳥居)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/77/4cc7ad1c6015fa1d5fa809baca29e283.jpg)
(神社向かいの小公園と祇王井川)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/93/cf7a497dca81f3358082ce80b0d27f43.jpg)
(祇王井川掘削のレリーフ)
中山道に戻り進むと、左手に仏身山唯心寺があり、
道路突き当たりを右折した右角に蓮照寺がある。
ここには朝鮮人街道分岐点にあったとされる、道標がある。
山門をくぐると正面に本堂と白い象、右側に鐘楼があり、
鐘楼手前にその道標はある。
「右 中山道」「左 八まん道」とある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/ab/f2320ddd4ce43e1280d36fb595880863.jpg)
(道路を突き当たる手前左にある唯心寺)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/5f/106a041584f9e66bbf5224f4c1d0ac7c.jpg)
(右手にある蓮照寺)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/b6/7f8f875f504f3e481aa4b6d222b51eca.jpg)
(奥の本堂と白い象と手前右側の鐘楼)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/af/dec305d463e96ae7a3f3084ff36cc60c.jpg)
(鐘楼脇の道標、「右中山道 左八まん道」と読める)
中山道を進むと、左手に古いお堂がある。何のお堂であるか不明だ。
地蔵堂なのか、あるいは阿弥陀堂であろうか。
道なりに進むとコミュニティバスの停留所があるが、
これに(おのりやす)と関西弁というか、
京都弁で書かれているのが、ほほ笑ましい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/08/243d2c3e00cbbcba77e44061b07e19cb.jpg)
(阿弥陀堂?)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/4e/babd33a42d4d08e2d1763f6f6bbf4dd6.jpg)
(「おのりやす」のバス停=「どうぞおのりくださいませ」にきこえる。)
この先で東海道線のガードをくぐり、やがて野洲川に近づくと、
右手に十輪院がある。道路向かい側に地蔵尊が山と積まれている。
脇を通り抜けて野洲川の橋に出る。
左を見渡すと三上山の近江富士が美しい姿を見せている。
野洲川は夏と秋には水量がなくなり、徒歩渡りであるが、
水量が多い時は船渡しであったという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/b6/23b4b5e14f2dbb4f773bd9d846a95961.jpg)
(道路先に見える東海道線のガード)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/87/b1a576bc3f13980db27964e9d85e98cb.jpg)
(十輪院)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/fa/f4f69416526ea3e9e3311e58d9946097.jpg)
(道路を挟んで並ぶ沢山の地蔵尊)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/3d/3950c2f1cc915299ab6fcb4db1c7c75e.jpg)
(野洲川橋)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/42/cc4ca497472b3967980726bc5230f669.jpg)
(野洲川)
後ほど草津の交流館での話では、
皇女和宮の渡河の時は水量が無かったといわれる、と聞いた。
橋を渡り終え、いよいよこれから守山宿に入る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/20/47505200767714b31dbb79998b172d26.jpg)
(野洲川の土手から見た三上山(近江富士)
と背くらべさせるようになり、
いつしか「背くらべ地蔵」と呼ばれるようになりました。)
(野洲町指定文化財)とある。
右手の小さな地蔵が「背くらべ地蔵」で
左手は阿弥陀如来立像である。
地蔵堂(小屋)の左には、
沢山の地蔵さまが旅人の道中を守って並んでいた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/32/a13163e1d6db67f66b9f5dda7d41fe0d.jpg)
(背くらべ地蔵尊右側の小さい方)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/ee/e3805869bda22ace23066bbc48aa7079.jpg)
(小屋の左に並ぶ地蔵群)
地蔵堂の奥には、行事神社の鳥居がある。
神社前の道路を隔てて向い側には小公園があり、
脇に水路が流れている。
水路脇の公園の一角に(行合の水辺修景整備)と題し、
山を背景に農耕を営む人たちのレリーフが埋め込まれている石碑がある。
その脇に、
(史跡・祇王井川
江辺庄に生まれた祇王(ぎおう)は故郷の水利が悪く旱魃に悩まされていることを、
「平清盛」に訴え、承安三年(1173)野洲川のほとりから、
琵琶湖野田浦に至る三里(約十二キロ)の間に水路を作らせました。
その恩恵を讃えて、この水路を「祇王井川(ぎおういかわ)」と名づけられました。
このレリーフは、当時の水路工事の風景を描写したものです。)とある。
(滋賀県野洲町)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/0d/990ce3e71614722ff2600930ef1014cd.jpg)
(行事神社の鳥居)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/77/4cc7ad1c6015fa1d5fa809baca29e283.jpg)
(神社向かいの小公園と祇王井川)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/93/cf7a497dca81f3358082ce80b0d27f43.jpg)
(祇王井川掘削のレリーフ)
中山道に戻り進むと、左手に仏身山唯心寺があり、
道路突き当たりを右折した右角に蓮照寺がある。
ここには朝鮮人街道分岐点にあったとされる、道標がある。
山門をくぐると正面に本堂と白い象、右側に鐘楼があり、
鐘楼手前にその道標はある。
「右 中山道」「左 八まん道」とある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/ab/f2320ddd4ce43e1280d36fb595880863.jpg)
(道路を突き当たる手前左にある唯心寺)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/5f/106a041584f9e66bbf5224f4c1d0ac7c.jpg)
(右手にある蓮照寺)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/b6/7f8f875f504f3e481aa4b6d222b51eca.jpg)
(奥の本堂と白い象と手前右側の鐘楼)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/af/dec305d463e96ae7a3f3084ff36cc60c.jpg)
(鐘楼脇の道標、「右中山道 左八まん道」と読める)
中山道を進むと、左手に古いお堂がある。何のお堂であるか不明だ。
地蔵堂なのか、あるいは阿弥陀堂であろうか。
道なりに進むとコミュニティバスの停留所があるが、
これに(おのりやす)と関西弁というか、
京都弁で書かれているのが、ほほ笑ましい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/08/243d2c3e00cbbcba77e44061b07e19cb.jpg)
(阿弥陀堂?)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/4e/babd33a42d4d08e2d1763f6f6bbf4dd6.jpg)
(「おのりやす」のバス停=「どうぞおのりくださいませ」にきこえる。)
この先で東海道線のガードをくぐり、やがて野洲川に近づくと、
右手に十輪院がある。道路向かい側に地蔵尊が山と積まれている。
脇を通り抜けて野洲川の橋に出る。
左を見渡すと三上山の近江富士が美しい姿を見せている。
野洲川は夏と秋には水量がなくなり、徒歩渡りであるが、
水量が多い時は船渡しであったという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/b6/23b4b5e14f2dbb4f773bd9d846a95961.jpg)
(道路先に見える東海道線のガード)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/87/b1a576bc3f13980db27964e9d85e98cb.jpg)
(十輪院)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/fa/f4f69416526ea3e9e3311e58d9946097.jpg)
(道路を挟んで並ぶ沢山の地蔵尊)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/3d/3950c2f1cc915299ab6fcb4db1c7c75e.jpg)
(野洲川橋)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/42/cc4ca497472b3967980726bc5230f669.jpg)
(野洲川)
後ほど草津の交流館での話では、
皇女和宮の渡河の時は水量が無かったといわれる、と聞いた。
橋を渡り終え、いよいよこれから守山宿に入る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/20/47505200767714b31dbb79998b172d26.jpg)
(野洲川の土手から見た三上山(近江富士)
西側の遠くにはもう比叡山が見えているでしょうな。
お隣の栗東には仕事の関係でよく訪れましたけど。
コメント有難うございます。
よく晴れた日で楽しく歩きました。
JR瀬田駅近くに泊りました。
子供に優る宝は無かった!
栄養不十分のなかで母乳…命に代えての子育て
一日でも早く、地蔵様の背丈に…強い願望
いまの女性とは大違い?
男社会で嫁として家事の責任は重大
子育て嫌なら三行半~時代逆行はないが将来懸念大
コメント有難うございます。
一般的に戦前は男子の出生率が高く、女子の出生率は低かったようですが、
男子の死亡率が高く、成人するに及んで男女同じくらいになった様です。
栄養の面もあるのでしょうが、今は幼児死亡率が減って男子の方が多くなっているようです。
昔の女性はよく子を産みました。
ボクも兄弟六人です。他に二人は乳幼児の時死んでおります。