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映画「わたしは,ダニエル・ブレイク」:尊厳を持って生きることの尊さと難しさ

2017年05月04日 10時22分04秒 | 映画(新作レヴュー)
先日,上司から突然「こないだ時間があったので『わたしは,ダニエル・ブレイク』を観てきた」という話をされた。普段,その方とは映画の話などしたことがなかったので,そんなミニ・シアター系の作品の名前がその口から出るとは思わなかったのでたじろいでいると,続けて「制作者は分かってないな」という感想を漏らされた。何のことかと思って訊くと,主人公が心臓発作を起こして倒れるラストの展開についてのご不満だった。「イギリスの公共施設であれば当然施設内にAEDの一台くらいはあったはず。もしその場でAEDが適切に使用されていたならば,ブレイクさんは必ず助かったであろう。AEDの効果の周知や普及という観点から見ても,とても『感銘を受けた』とは言い難い」ということだった。そういう切り口もあったかと,唸らされたのだが,私はケン・ローチの引退撤回作,充分に感銘を受けた,と言いたい。

心臓に疾患を抱え,長年やってきた大工仕事に就くこともままならぬ59歳の主人公は,失業保険の給付を受けるのに必要な申請を行うため,職安でパソコンの研修を受ける。「このカーソルをマウスを使って動かしてみて」という講師の指導に従って,ダニエル・ブレイクはマウスをカーソルが描かれているパソコンのモニターに直接あてて動かそうとする。ベタな表現ではあるが,職安に来る失業者も含めて,現代社会に生きる人すべてにICTスキルが備わっていることをデフォルトと考える今の社会の姿勢に,ケン・ローチはカメラという鋸を使って鮮やかに切り込んでいく。

周到に用意された伏線や,ウィットに富んだ台詞でうっちゃりをかますのでもない。言ってしまえば,市井の初老の男が,未来を切り拓く可能性を持つ子供を抱えながらも貧困に苦しむ若い母親を,身を挺して助けようとする,というシンプルな筋立てが,淡々と綴られていくだけだ。しかし必要なショットだけが,適切な場所に置かれ,「この役を演じるなら彼らだろう」と思われる無名の役者たちが日常的な生活の延長のような空気感で,「そう言いたくなるよな」という台詞のやり取りを行う。そんなドラマこそが,心に鎧をまとった人をも射貫く力を持つ,ということを改めて思い知らされた。

「敬意を持った扱い。それが望むことの全てです」。映画はダニエル・ブレイクの葬儀で,彼に助けられたシングルマザーのケイティがこう締め括り,フェイドアウトして終わる。ケン・ローチ,ウェルカム・バック!
★★★★
(★★★★★が最高)


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