子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「鉄男 THE BULLET MAN」:ナイン・インチ・ネイルズのテーマ曲はど真ん中だったのだが…

2010年06月09日 00時00分02秒 | 映画(新作レヴュー)
第1作が公開された1989年から既に21年が過ぎた。バブルからリーマン・ショックへ。平成元年からここまでの距離は,感覚的には「21年間」という年月以上のものがあるように感じるが,これでシリーズ3作目となる本作の基本的なテイストは,殆ど変わっていないように見える。

それはクリエイター(監督から脚本,撮影,特殊効果まで,プロダクションの殆ど全てを一人で担当しているため,これ以上に相応しい呼称はないだろう)塚本晋也が作り上げた「鉄男」という一つの「ジャンル」が,ストーリーから表現様式まで,既に独自かつ強固な「芯」のようなものを獲得してしまっているからにほかならない。だから塚本が,新世紀の「鉄男」を再構築するにあたって,作品のフォーマットを変えるどころか,現在到達している水準が当時は想像も出来なかったであろうコンピューター・グラフィックスという技術=表現技法さえも,敢えて使う必要がないと判断したことは実に自然な成り行きに思える。

その断固たる判断によって,シリーズ第3作は「9.11」を経験し「金融恐慌」をくぐり抜けた世界における新たな「鉄男」を,独自の筆致を深化させて描いた作品になるはずだった。事実,「鉄男」シリーズの誕生に影響を与えたと思われる,80年代のドイツを代表するグループであるアインシュツルテンデ・ノイバウテンを彷彿とさせるようなビートに乗って「鉄男」の怒りが上昇していくシークエンスが内包するアドレナリンの量は,先行する2作に劣らない。

にも拘わらず,観終わった時に残ったのは,何か釈然としないモヤモヤ感だった。それは何故なのか。主人公がアメリカ人だったからなのか。謎の男を含めて登場人物が皆英語を喋るからなのか。東京を舞台としていながら,ビル街の遠景と子供が殺されるガード下のシークエンス以外に,東京を感じさせるような描写が注意深く避けられていたからなのか。
おそらくは,「鉄男」の物語に時空を超えた普遍性を与えるために張り巡らされた,そういった配慮全てが裏目に出てしまったようだ。

マーティン・スコセッシの「タクシー・ドライバー」が,ニューヨークという街をあらゆる角度から掘り下げることによって,ニューヨークに生きる特殊な男の話を超えて,どんな街にでもいるはずの孤独な人間を記録した普遍的な物語に昇華していたのと同じ現象が,「鉄男」の前2作では確かに起こっていた。だから今回もクリエイター=塚本晋也が「C.Gを使わない」という判断を下した後に為すべき仕事は,今まで通り「東京」に向き合うことだったのかもしれない。後は自然体で構えて,「鉄男」というフォーマットが,時代の風に吹かれて流れていく様をキャメラで切り取ってさえいれば,少なくとも「世界基準」を過剰に意識して肩に力が入った「鉄男」になることはなかったはずだ。
鉄男の父が残した日記の文字と,変身した「鉄男」のフォルムは,東京都現代美術館によく似合いそうなんだけれども…,うーん残念。
★★★
(★★★★★が最高)


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