子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「灼熱の魂」:彼らもまた今同じ星に生きている,という事実に打震える

2012年03月18日 21時27分34秒 | 映画(新作レヴュー)
カナダから中東の何処かの國へ。死んだ母が遺した奇妙な2通の手紙が,遺された双子の姉弟を,残酷で容赦のないルーツ捜しの長い旅へと駆り立てる。
物語の最終盤,遂に母が子供たちに伝えたかった真実に弟が触れ,姉に「1+1が2ではなく,1だったら?」と語りかけるシーンの重さは,今試練に立ち向かうこの国でこそリアルに感じられるのかもしれないと思いつつ,同時代に生を受けながら,砂埃も舞わない劇場の柔らかい椅子で観ることの巡り合わせを深く考えさせられるような作品だ。

運命という言葉では簡単に片付けられない様々な要素を豊かに内包した物語だが,不寛容(この作品では主に宗教に対して)であることが人間をどれほど残酷な行為に駆り立て得るのかという話として捉えれば,グリフィスの「イントレランス」にも通じる普遍性を既にして獲得しているようにも感じられる。
燃えさかるバスを背にして慟哭する母の姿は,それを表現する言葉を見つけられない程に苛烈だが,実は彼女を襲う悲劇はこの時点ではまだほんの序章が終わった段階に過ぎない。
物語を観終えた観客は,この場面から後に彼女を待つ試練を思い返す度,青空と砂漠と炎とを捉えた画面の鮮やかなコントラストに脳裏を激しく焼かれるような思いを反芻するに違いない。

姉弟役の二人,そして母親役の三人は,緊張感に満ちた素晴らしい演技で物語を引っ張り続けるが,ただ観客を緊張させるだけに終わらない潤いを与えている公証人役のレミー・ジラールという役者の,懐の深さもまた強い印象を残す。「公証人にとって約束というものは,神聖なものなのだ」という台詞もまた,親戚のおじさんのような演技の余韻とともに観るものの胸に響き渡る。

映画としての完成度だけを見れば,決して隙がない,とは言えない作品であるのが不思議だ。ミステリーの体裁を取りながらも,謎を追いかける姉の足跡に,かつて母が辿った旅が再現されて重なってゆく展開は,決して滑らかとは言えないからだ。
おそらくはシンプルに現在の時制で物語を進め,再現劇は最後にまとめて種明かしとして繰り広げる方が,映画としては遥かにドラマチックな効果を挙げたように思う。
だが観終えて感じるのは,少年の澄んではいるが,すでに何かに取り憑かれたような視線に,レディオヘッドのトム・ヨークの少しひしゃげたような声が被さる,遥か昔の映像から物語を始めるしかなかったのだろうということだ。子供たちと母親が時制を越えてシンクロしながら,ゆっくりと悲しみを共有していく話法そのものが,もう一つの物語のようだ。
★★★★☆
(★★★★★が最高)


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