映画とライフデザイン

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1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代

2016-09-04 12:35:03 | 
「1974年のサマークリスマス」はTBSアナウンサーであった林美雄の半生記とも言うべき物語である。ノンフィクションとしては最高峰のレベルの作品だ。同じころに青春を過ごした自分としては実にハイな気分になれる。


1970年代前半の深夜放送の絶頂期、TBSラジオ「パックインミュージック」の第二部深夜3時はスポンサーもつかない中、DJの林美雄が自分流で曲の構成も考え、まだ人気の出ていなかった石川セリや荒井由美(松任谷由美)に注目する。同時に公開当時はほとんど注目を浴びなかった藤田敏八監督作品「八月の濡れた砂」などの人気のなかった映画にも番組内でスポットをあてる。そういう内容は一部ファンから強く支持されていた。


その時間帯のライバル番組に長寿番組日野自動車提供「走れ歌謡曲」がある。深夜運転するドライバーが聞く番組だ。それに対抗して、いすゞ自動車がTBSの午前3時からの時間帯を丸ごと買い取るのだ。TBSとしては大歓迎だが、林美雄のパックインミュージックは終了が決まる。1974年7月26日林美雄は突然番組で8月いっぱいでの終了を告げる。

本来、一人でじっと聴いている視聴者が交流を持つことなんてありえない。しかし、林パックを聴いている女性視聴者が自分一人では敷居が高いから「深夜映画を観る会」をつくってくれれば行きやすくなると投書をする。それに乗ったのが林美雄だ。放送中に呼び掛けるとあれよあれよという間にその会ができてしまうのだ。

深夜映画を見る会が誕生したことで、本来は出会わないはずのリスナーたちが、横のつながりを持ちはじめる。マニアックな若者たちが、最先端の日本映画情報を発信し続ける林パックに集結し、映画業界も音楽業界も注目するようになった。(P171)

若者たちは、愛する番組の消滅を座視することができず、パ聴連(パック 林美雄をやめさせるな!聴衆者連合)を結成して、番組の存続を求める署名活動を開始した。(P179)。。。。8月25日サマークリスマスと名づけられた林美雄の誕生日は400人のリスナーが集まり、石川セリ、荒井由美、中川梨絵のゲストたちも番組存続の署名にこぞって参加した。(P179)

その後署名を持って番組存続を希望するファンがTBSに押し掛けたけれど、放送は終わってしまう。最後の放送は劇的なものだった。しかし、これで終わってしまうわけではない。林美雄をとり込む仲間たちがものすごいプロジェクトを企てるのである。そういうドラマが続いていく。

ここでは林美雄の人生も語られる。東京生まれの林はいろんな商売をやって失敗していた父のもと育った。学校の名簿には全員の電話番号が書いてあったけど、僕の家だけ空白だった。お金がなくてひけなかったからだ。(P117)裕福ではなかった。都立第三商業高校から三菱地所に就職する。ところが、高校時代放送部でNHK杯全国高校放送コンテストのアナウンス部門で優勝していた彼は、アナウンサーになるなら大学卒しかとらないので、早稲田大学の第2法学部に進学し、難関の試験を経て1967年4月TBSに入社するのだ。久米宏と林美雄は早稲田の同窓でかつ同期入社である。

その彼の同棲していた女性、高校の放送部の後輩だった妻になる女性の2人との絡みも語られていくが、ちょっと複雑でなので語らない。

1.荒井由美(松任谷由美)
まだ無名時代の荒井由美をラジオで支援したのが林美雄だ。のちのスーパースター松任谷由美はデビューからおよそ1年半にわたって、林パック以外のメディアでは取り上げられなかった。ただひとり林美雄だけがデビューアルバム「ひこうき雲」を一聴して「この人は天才です!」と絶賛。「八王子の歌姫」と紹介し、他の番組が無視する中、前週は三曲、今週は四曲、翌週は録音したての新曲と執拗に紹介し続けた。(P17)
大人になった時の演奏だけど、ベルベットイースター

密かに荒井由美を支援する人たちは増えていったはずだ。このころ自分の学校でもクラスに数人彼女の歌はいいよという連中が出ていたと思う。でもそれは1974年の暮れごろではないだろうか。自分が初めて荒井由美の歌をまともに聴いたのは従兄の部屋で1975年になってからだ。そのすぐ後にレコードを買い、レコードがすりきれるくらい「ひこうき雲」「ミスリム」「コバルトアワー」を聴いた。そして、1975年10月にテレビドラマの主題曲だった「あの日にかえりたい」が大ヒットする。しかも、作詞作曲でバンバンに提供した「いちご白書はもう一度」が11月に連続して大ヒットする。この時の勢いは記憶に新しい。それからはご存じの大ブレイクである。

松任谷由美いわく「林さんとの関係は「旅立つ秋」を贈ったくらいまでがタイトだったけど、私がメジャーになったからといってつきあいを変える人ではなく、会えば以前と同じ感じで接してくれた。少数が支持しようが、多くの人が支持しようが、林さんにとっては関係ない。かといって、自分はまだ誰も気付かないときに(ユーミンを)見つけたんだという振りかざしもまったくなかった。林さんはそういう人です。」(P271)
林美雄は素敵な人だ。

2.石川セリ
映画「八月の濡れた砂」の主題歌を歌ったのが石川セリである。その後井上陽水の妻になる石川セリはエキゾティックな容姿で「ダンスはうまく踊れない」のヒット曲などで人気を集めるようになるが、まだその時期はきていない。林パックで映画「八月の濡れた砂」を紹介し、石川セリの歌う主題歌が数カ月にわたって流され続けるのだ。この映画がいろんな名画座で放映されるようになり、徐々に注目を浴びるようになる。

石川セリと井上陽水との馴れ初めも語られる。林美雄のパックにゲストとして石川セリと荒井由美が出演する。荒井由美が「あの日にかえりたい」で大ブレイクしたころだ。その時、なんと吉田拓郎と井上陽水が番組に乱入してくるのだ。どうも陽水は石川セリに興味ありげだったようだ。そして番組が終了して4人は飲みに行く。いきなり石川セリをお持ち帰りとは行かなかったようだが、これがきっかけだったのは確かだ。当時陽水には妻がいた。でも子供がいない。それだったらいいっかというのが石川セリの言い分だ。

3.パックインミュージックでとりあげる映画
紹介したのは「八月の濡れた砂」だけではない。
初期の林パックが特に力をこめて紹介したのは、日活ニューアクションと呼ばれる作品である。たとえば澤田幸弘監督の「斬りこみ」「反逆のメロディー」、藤田敏八監督の「新宿アウトロー」「野良猫ロック 暴走集団71」。。。など。かつて日活のアクション映画には石原裕次郎。。に代表されるハンサムでかつかっこいいヒーローが不可欠であった。だが、ニューアクションには明確な主人公が存在しない。原田芳雄、藤竜也。地井武男らアンチヒーローたちの偶像劇なのだ。(P136)

やがて林美雄は、日活がロマンポルノに移行してからの作品も紹介するようになった。たとえば田中登監督の「牝猫たちの夜」であり、村川透監督の「白い指の戯れ」であり、神代辰巳監督の「濡れた唇」「恋人たちは濡れた」などである。(P137)

そして林美雄の最愛の映画はキャロルリード監督ミアファロー主演「フォローミー」だ。林美雄の映画紹介は短い。印象的だったシーンへの共感を語っても映画論を語ることはない。それでも不思議なことに「フォローミー」林美雄にとってかけがえのない映画であることは、リスナーにははっきりと伝わる。(p157)

4.このころの自分と荒井由美と石川セリ
1970年代前半オトナ文化に関心を持ちはじめた時、自分は中学生だ。各放送局で深夜放送のスターがいた。文化放送は落合恵子、土居まさる を筆頭にしてみのもんたが力をつけ「セイヤング」が人気だった。一番人気はニッポン放送の「オールナイトニッポン」で、TBSは「パックインミュージック」だった。中学1年から洋楽のヒットチャートに夢中になり、夜遅くまで起きようとするのであるが、自然と10時半くらいになると眠くなるので続かなかった。

高校の時一人の女性のことを好きになる。なぜか荒井由美と石川セリのファンであった。いつか同窓会があった時に確認してみたいのであるが、もしかして林パックを聴いていたのではないか?従兄の影響で荒井由美を聞くようになったが、彼女に話を合わせるために荒井由美の歌を深く聴くようになった。石川セリの話題もなぜか出てくるので、「朝焼けが消える前」が入っている「ときどき私は」のLPはレコードがすりきれるくらい聴いた。この本を読みながら、75年~76年くらいの想い出が鮮明に映像化されてきた。著者柳沢健氏は自分と同世代で同窓のようだ。どんな青春を過ごしてきたんだろう。

1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代
今年一番のノンフィクション


八月の濡れた砂
テレサ野田の妖艶さ

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