Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ランボーが見たもの

2013-01-25 17:27:08 | 日記

★ 大股で歩を進めるシャルル。膝までの雪がメレンゲ菓子のような乾いた音をたてる。カメラが足跡を追う。ランボー出奔という設定だ。かつてランボーが、友人ドラエーと、煙草を買いにアルデンヌからベルギーへ不法越境していたのは、このあたり。樅の林に太陽が沈んで、雪は紫の光沢を帯びはじめ……「夕闇が森に涎をたらすころ」……道の果てには税関吏が、凍った土に足踏みしながら、体を温めているのが見える。赤と白の遮断機は降りたまま。あたりは荒寥として、「進んでいけば、世の果てがあるばかり」。テレビ局の車は壕の中に停まっている。

★ 森の道。雪の夜に子供が一人、贈り物をくれた見知らぬ男のあとを追う、あのクリスマスの夜話のように、ランボーの越境の行程も、どこへも行き着くことはなく、野原のただなかで、足跡は突如途切れる。だが、歩行の足跡と、足跡の彼方の追いつきえない肉体との隔り、そこにこそ、われわれを魅了するものがある。痕跡が魅了する。痕跡は、到達しえない肉体をこそ物語っているのだ。

★ ロワシー空港のチャイムの音――クリスタルのようなその音がしだいにシタール様の響きとなり消え去ってゆき、そのあとに遠ざかりゆく飛行機の爆音が聞こえてくる。(…)「新しい情愛と響きとへの、出発だ」。まことランボーには、出発のうたがある。人の心を引き留めるすべての場所やすべての絆、すべての義務やすべての懸念から己を引き離さんとする、いかなる時でも鮮烈なあの力がある。私が彼から教わったあの自由、失業とインフレとか戦争とか、際限なく繰り返される人間どもの問題に対して、「見飽きた、(…)知り飽きた」と今日言ってのける自由が、ランボーにはある。出発だ!

★ エチオピアの最初の印象は、いまだに私のなかで、熱にけだるい目をした子供の姿と結びついている。
(…)
文学が突如、飽食した国々の贅沢と見えてしまう。「こんな毒物ばかり発明して、何が近代だ」!

★ 心揺さぶる戦慄だ。これから我々、長い移動撮影に入り、生のアフリカを発見しにゆく。

★ 女たちは、色とりどりの一枚布で体をまいて、くるぶしには足輪を鳴らし、頭にのせた窓の高さのバスケットに、パパイヤやらベニエ、ヒラ豆やらグァバの実を、ところ狭しと詰め込んで、歩きまわる。かと思うと、ひょうたんに埋め込んだ心棒を、マニオック樹のバチでたたいて、リズムをとりつつ通り過ぎる者もいる。遠方には、丈高い砂糖黍の畑の下で、体を揺する女たち。腰をくねらせ腕の下を掻きながら、噛みつぶした草の汁を歯のあいだから吐き出している。燃えるような腰の線。露に匂う双の胸の見事さ。エロチシズムよりも、むしろ無限の母性を思わせる。かつてフランス人派遣隊が、現存最古の人間の骨、五百万年前の女の骨を見つけたのは、エチオピアの大地溝帯でだった。その女はビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンド」にちなんで、ルーシーと名付けられたのだった。完璧な空の青のただなか、太陽の光に照らしだされた、ルーシーの52本の骨。

★ 列車は時を遡り、夢の世界の冒険へと、希望へと、想像された苦悩へと、我々を直かに導いてゆく。私が見ているものはランボーが見たものなのである。と、サヴァンナが突如途切れて、今度は火山岩がどこまでも続く。列車ほどの大きさもない、とある村に停車する。打ちのめす暑さ。木々は焦げて黒く、葉はすべて赤茶けた紙のようだ。ランボーの言う「月面の荒涼とした世界もかくやと思わせる恐ろしい道」(多少誇張があるにしても)、遠くにその道を、ランボーがキャラバン(ガフラ)とともに通ってゆくのが目に浮かぶ。90年前の1886年10月、白麻の上着に炒り黍を少しばかり携えて、駱駝のゆったりした足どりにあわせて、その先頭を行くランボー。

★ だが出来ればその時、彼に伝えるべきだった、(…)このキャラバン行は、災い多かろうと。ただ彼は、耳を傾けはしなかったろうが。

<アラン・ボレル『アビシニアのランボー』(東京創元社1988)>