★ 農林木挽工場カタログ、大工技術のポケットブック、冶金学概論、都市・農業水理学の本、蒸気船長、造船、火薬と硝石、鉱物学、石工術、掘抜井戸、木挽工場建設の教え、繊維について、農林木挽工場カタログ、農業機械絵入りカタログ、車づくりの手引、完全錠前製造術、鉱山開発、ガラス工の手引、煉瓦製造法……「コーランの仏語訳で最良のもの」、商業・航海辞典、アムハラ語辞典。
★ かくも並んだ書物のリスト!この列挙から聞こえてくるのは、倦怠のうちに行為して、生活知などほとんど持たない者の悲しげな声だ。文学の匂いすらない乾いた声。学校では「超秀才」、詩人としては「天才」と言われた一人の男が、素朴にも通信教育を受けるがごとく学ぼうとする奇妙な姿がそこにある。
★ とある書店にランボーは、自信に満ちた調子でごく普通のことのように、「数学、光学、電気学、気象学、力学及び鉱物学関係の機械として、フランス(または外国)において製作されている最良のものの全貌を知りたく思います」と書き送る。そしてちょっとばかりユーモアまじりに(無意識にか?)「外科医の機械は扱いません」と書き足している。
★ おそらく当時、アデンとハラルの間でランボーのところほど、種々雑多な本が集まっていたところはなかっただろう。それらの本は、いつでもあまりに遅く到着し依頼主を失望させて、移動の途中火にくべられ海に捨てられ、忘れ去られて散っていった。印刷所も印刷技術もない国にはあまりに唐突な書物の数々。手引書やら概論やら、ランボーは、当時のアビシニア全土を見渡しても得られぬほどの書籍を、かき集めていた。そしてその本のページを、おそらくはただハラルの時折りの風だけが、操っていたことだろう。
★ 1881年リヨンに発注したカメラを、速やかに富を得る方法として、ランボーは首を長くして待ち、手紙でも事あるごとに言及していた。自分の映像を見てみたい気持ちもあったろうが、当のカメラはモーリス島を迂回して、かなり時がたってから、ランボーのもとに届いた。だがそれでも、十分に遅くはなかったのだ。なぜならランボーは、恐れていたとも言えるのだから、知ることを、自分を見ることを、――絶望することを。
★ こうしてある日ランボーは、「うす汚れた現像液のなかに」現われ出る自分の顔を、目にすることになる。「自分で撮った僕の写真を二枚同封します」。だが彼は、老け込み疲れ切ったその顔に、己を認めることができない。そこにあるのは、かつてヴェルレーヌとともにロンドンでファンタン・ラトゥール筆『テーブルの片隅にて』に見た、自分自身ではもはやない――ドリアン・グレイの肖像とは言わないまでも。
★ 「写真をお送りしたのは、単に僕の顔を思い出してもらうためです」。見つめてもらおうというのではありません、「ただ思い出してほしいのです」。
<アラン・ボレル『アビシニアのランボー』>