wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

「悪魔祓い」上田紀行著

2016-12-04 12:19:40 | 読書日記
新聞の書評され、この題名に興味を持ったので、読んでみた。

上田紀行氏は、スリランカへ「悪魔祓い」の儀式を研究に行く。そして、実際に何度も見て、この悪魔祓いの権威になっていく。病人と悪魔祓い人とが、イメージを働かせながら、呪文を唱えたり、踊ったり、供物をお供えしたり、自分自身を暗示に掛けていく?セルフコントロールをするサイモントン療法みたいに。でもほんとに殆どの人は悪魔祓いによって病気が治る。悪魔が出て行ってしまう。

本を読んでいて、目に見えないものを、見えたり、考えたりして、想像していくのって、果たして、難しいし、私達みたいな一般人には、理解できないところがある。それでも、現実は、悪魔に取り付かれた人が、治って、普通の生活をすることが出来るようになっている。やっぱり不思議な世界だ。

     


現代のこのストレス社会をズバッと切っていた。ストレスが、身体に影響し、バランスを崩し、免疫力が低下していく。
また、かわいがられたり、話しかけらりして、育てられたウサギは、動脈硬化の発病率が、低いと研究された。
何よりもリラックスすることが大切で、イメージ療法により、右脳を活発に活動させ、アルファ波やドーパミンが出るようにすると精神的にリラックスできて良いそうだ。
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「大谷吉継」の謎を解く

2016-12-04 10:54:14 | その他
平成28年11月27日(日)、恒例の古民家園歴史講座へ行ってきた。
今回は、真田信繁岳父という触れ込みで、「謎多き義将 大谷吉継」の題目で、講演会を聞いてきた。
   

私達が、以前行った、滋賀県の琵琶湖の北に、「小谷」と書いて、「おおたに」と読ませる地名があり、そこは大谷吉継の出生地だという噂を聞いて、訪ねたことがあった。
果たして、今回その地名が出てきて、納得した限りだ。

『兼見卿記』(かねみきょうき)という本によると、お母さんが、「東殿」といって、秀吉の正室「ねね」の側近で、年齢は、天正20年(1592年)に「刑部少輔甘八才」と記述してあるという。

初めて、公に記述として登場したのは、天正5年(1577年)秀吉の馬廻り衆「大谷平馬」と、『武功夜話』にあるらしい。石田三成を補佐し、九州征伐にも行っている。越前敦賀城主になり、小田原征伐の時は、有名な忍城攻めにも参加している。

朝鮮出兵も参加するが、進行性の病気により、奉公職を離れて帰国している。
『兼見卿記』によると、天正18年(1590年)母東殿は、息子の為に、病平癒の祈祷依頼をしている。

文禄3年(1594年)直江兼続宛てに、草津温泉から書状を出し、病の為、花押ではなく、印判を用いるとある。

慶長5年(1600年)7月会津の上杉景勝征伐の為に討伐軍に参加。途中、三成の息子を参加させるために、佐和山城へ行く。その時に、家康討伐の意向を告げられて、迷った挙句に、同調を決意した。

五大老の一人、前田利家が死に、嫡男利長が当主となり、家康暗殺を画策それが発覚し、母を人質に出す。それによって、前田家は家康方になる。

吉継の計略により、前田軍の進軍を1ヶ月遅らせ、関が原に着いたのは、9月22日終わったあとだった。

吉継は、9/3には関が原の西の山に布陣をしいていた。
9月15日午前8時ごろ合戦が始まる。正午頃、小早川秀秋が東軍になびき、大谷隊総崩れ、家臣湯浅五助の介錯により自害。家臣三浦喜太夫により首を埋めた。

新たに知ることもあり、歴史の面白さを知る。

病押して 義理人情に 散る雲雀
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