平成27年7月12日(日)、友人が「鎌倉の英勝寺の門の中に特別に入れてもらって、見学してきた」と言ったことがきっかけに、何年か前に行った時に、そんな大きな門があったかなと思い、それじゃあ確認しに行こうということになった。
それに、鎌倉は、鎌倉幕府の御家人であった足利尊氏や直義が住んでいたところでもあり、何か足跡は残っていないか気になっていたところでもあったので、今回のウォーキングとなった。
果たして、実際行ってみると、偶然にも、ブラタモリで紹介された「浄光明寺」で、住職さんの詳しい説明を聞くことができたし、足利尊氏が建立したという「覚園寺」の薬師堂を見ることができたりと、得ることがたくさんあったので、面白い。
それでは、順番に、紹介していこう。
まずは、鎌倉駅を降りて、観光案内所で鎌倉市の観光案内の地図をもらう。
外国人がたくさん来ていて、英語が飛び交っていた。
英勝寺を目指し歩く。その途中手前に、北条政子のお墓がある「寿福寺」に寄る。
道なりに歩いて、太田道灌生家跡や「英勝寺」に着く。
この門が友人が中に入ったと言っていた門である。なるほど、門の内側に梯子が備え付けてあって、「あー、ここから上ったんだな」「こんな急で上りにくそうだな」と思った。
また、英勝寺は、家康の側室の「お梶」(道灌を先祖に持つ。戦に連れて行くと連戦連勝、関ヶ原の勝利も祝って、縁起のいい「お勝」に名前を変え、家康逝去後「英勝院」と改めたという)によって築かれた。
家康はこの英勝院に、水戸頼房の養育を命じ、徳川御三家の一つ水戸徳川家の基礎を築き上げさせた。出家後家光の配慮により、太田家ゆかりの扇が谷のこの地に、先祖の供養のお寺ができたということである。
次に、お昼は小町通りに戻ろうかとなり、まだ時間があるから、近くのお寺に行こうと、寄ったのが「浄光明寺」。全く「ブラタモリ」で紹介されたとは知らず、なんか混んでいるなと思ったくらいだった。そこのお寺は入場料をもらうのも説明するのも、住職さん?一人で切り盛りされていて、「あなた方も、ブラタモリを見て、いらしたのですか?」の質問で、初めて知った。
そこでは、鎌倉時代の古い地図が発見され、それをタモリさんはいたく感動していたという。また、鎌倉時代に彫られた「阿弥陀如来像」が展示されたあり、鎌倉時代の特色である、土文(どもん)が施され、綺麗な顔の仏様でした。これは写真撮影禁止であった。また、直義が寄進したという念持仏があったり、冷泉為相の墓が見晴らしのいいところに建っていたりした。この冷泉為相は、「十六夜日記」の作者阿仏尼の息子で、二人は、遺産相続のことを訴えに、京から鎌倉まで来たらしい。その旅日記が「十六夜日記」だそうだ。
その住職さんが、覚園寺に足利の歴史が残っているというので、昼はあとにして、そちらに向かう。
途中、扇が谷上杉の屋敷跡の碑があった。
宝戒寺に行く。昔読んだ本の中に、足利尊氏・直義兄弟が遊んだという記述があったような。
最後に「覚園寺」へ行く。なるほど、ここには、尊氏が建立したという「薬師堂」があった。ちゃんと天井に、尊氏の名前が薄くなっていたが、確認できた。
ここは、お坊さんが、一時間くらいかけて、説明をしてくれる。広い庭園は春夏秋冬、楽しませてくれる。そこで教えていただいたのは、如来=仏、菩薩=中間管理職、明王・天=お寺を守っていると。だから阿弥陀如来とあったら、阿弥陀仏と置き換えられるということだ。
鎌倉駅に戻る道すがら、「え柄天神社」や鎌倉幕府より500年も古いお寺「杉本寺」に寄った。杉本寺では、十二面観音菩薩像(頼朝が寄進・運慶作)があり、斎藤栄の本では足利尊氏の子供の義詮は、わずか11歳で、奥州から攻めてきた北畠をこの杉本城で、総大将となり、守っていたという。11歳と十一面が妙に心に染みつき、運命に押し流されると感慨ひとしおだと書いていた。
鎌倉は、まだまだ見るところがありそうだ。
いつものようにこうやって歩けることに感謝して、筆をおこう。
それに、鎌倉は、鎌倉幕府の御家人であった足利尊氏や直義が住んでいたところでもあり、何か足跡は残っていないか気になっていたところでもあったので、今回のウォーキングとなった。
果たして、実際行ってみると、偶然にも、ブラタモリで紹介された「浄光明寺」で、住職さんの詳しい説明を聞くことができたし、足利尊氏が建立したという「覚園寺」の薬師堂を見ることができたりと、得ることがたくさんあったので、面白い。
それでは、順番に、紹介していこう。
まずは、鎌倉駅を降りて、観光案内所で鎌倉市の観光案内の地図をもらう。
外国人がたくさん来ていて、英語が飛び交っていた。
英勝寺を目指し歩く。その途中手前に、北条政子のお墓がある「寿福寺」に寄る。
道なりに歩いて、太田道灌生家跡や「英勝寺」に着く。
この門が友人が中に入ったと言っていた門である。なるほど、門の内側に梯子が備え付けてあって、「あー、ここから上ったんだな」「こんな急で上りにくそうだな」と思った。
また、英勝寺は、家康の側室の「お梶」(道灌を先祖に持つ。戦に連れて行くと連戦連勝、関ヶ原の勝利も祝って、縁起のいい「お勝」に名前を変え、家康逝去後「英勝院」と改めたという)によって築かれた。
家康はこの英勝院に、水戸頼房の養育を命じ、徳川御三家の一つ水戸徳川家の基礎を築き上げさせた。出家後家光の配慮により、太田家ゆかりの扇が谷のこの地に、先祖の供養のお寺ができたということである。
次に、お昼は小町通りに戻ろうかとなり、まだ時間があるから、近くのお寺に行こうと、寄ったのが「浄光明寺」。全く「ブラタモリ」で紹介されたとは知らず、なんか混んでいるなと思ったくらいだった。そこのお寺は入場料をもらうのも説明するのも、住職さん?一人で切り盛りされていて、「あなた方も、ブラタモリを見て、いらしたのですか?」の質問で、初めて知った。
そこでは、鎌倉時代の古い地図が発見され、それをタモリさんはいたく感動していたという。また、鎌倉時代に彫られた「阿弥陀如来像」が展示されたあり、鎌倉時代の特色である、土文(どもん)が施され、綺麗な顔の仏様でした。これは写真撮影禁止であった。また、直義が寄進したという念持仏があったり、冷泉為相の墓が見晴らしのいいところに建っていたりした。この冷泉為相は、「十六夜日記」の作者阿仏尼の息子で、二人は、遺産相続のことを訴えに、京から鎌倉まで来たらしい。その旅日記が「十六夜日記」だそうだ。
その住職さんが、覚園寺に足利の歴史が残っているというので、昼はあとにして、そちらに向かう。
途中、扇が谷上杉の屋敷跡の碑があった。
宝戒寺に行く。昔読んだ本の中に、足利尊氏・直義兄弟が遊んだという記述があったような。
最後に「覚園寺」へ行く。なるほど、ここには、尊氏が建立したという「薬師堂」があった。ちゃんと天井に、尊氏の名前が薄くなっていたが、確認できた。
ここは、お坊さんが、一時間くらいかけて、説明をしてくれる。広い庭園は春夏秋冬、楽しませてくれる。そこで教えていただいたのは、如来=仏、菩薩=中間管理職、明王・天=お寺を守っていると。だから阿弥陀如来とあったら、阿弥陀仏と置き換えられるということだ。
鎌倉駅に戻る道すがら、「え柄天神社」や鎌倉幕府より500年も古いお寺「杉本寺」に寄った。杉本寺では、十二面観音菩薩像(頼朝が寄進・運慶作)があり、斎藤栄の本では足利尊氏の子供の義詮は、わずか11歳で、奥州から攻めてきた北畠をこの杉本城で、総大将となり、守っていたという。11歳と十一面が妙に心に染みつき、運命に押し流されると感慨ひとしおだと書いていた。
鎌倉は、まだまだ見るところがありそうだ。
いつものようにこうやって歩けることに感謝して、筆をおこう。