wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

後北条氏の滅亡の真相

2015-07-04 16:40:26 | その他
平成27年6月21日(日) 小雨降る中、相模川自然の村公園の中にある古民家園で、この辺の領主であった北条氏の滅亡に関する歴史講演会があるというので、千ちゃんとワクワクしながら行って聞いてきた。

室町幕府の後半、関東がぐちゃぐちゃしている折に、伊勢新九郎(のちの北条早雲)が伊豆を乗っ取り、相模を平定した。(関東は関東管領が貴族化して、守護代が実権を握るようになり、山内上杉や扇谷上杉の対立もある。)、その時には、早雲は各地にお布令を出して、平定に尽くした。相模原の当麻山にも資料が残っていると聞いたことがある。

そんな北条氏が房総半島から相模・伊豆を支配して、平和な時代を築いた。そんな時代から5代氏直で滅びるまでのことを分かりやすく話してくれた。

   


つまり、北条は佐竹と仲が悪く、それを攻めるためには、西側の徳川と仲良くなってないと、安心して、攻めることができない。それで、北条は徳川と同盟を結んだ。また、秀吉は関白になり、2年後には、徳川は秀吉と和議を結んでいる。それに伴って、北条と徳川の同盟は意味を成さなくなり、秀吉に付け入る隙を与えてしまう。

徳川は北条の沼田領有を認めるが、領主の真田氏は沼田を渡さず、家康を離れ秀吉に従い居座った。ところが沼田城代が名胡桃城を攻めてとってしまったことから、秀吉は怒って、小田原攻めになった。小田原評定一夜城が言われたこともこの時代のことがきっかけである。

室町時代から戦国時代、そして江戸時代になるまでは、とかく群雄割拠で分かりづらいところもある。でも、こうやって詳しく知ることができると、歴史がますます面白くなる。
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