Lucky☆Sardonyx

ばるご☆の戯言ブログです(^^)

V-Project☆Singles@本庄児玉雉ヶ岡城跡公園

2009-04-12 23:27:15 | コメント
今日は、県外に足を伸ばし(笑)埼玉の雉ヶ岡城跡公園に行って来ました(^^)

雉ヶ岡は室町中期頃、関東管領山ノ内上杉氏の武蔵国の本拠地として築城されたと伝えられています、その後山ノ内上杉氏が上野国平井城へ拠点を移すにあたり家臣夏目氏に雉ヶ岡城を任せたのです、夏目氏は定基、定盛の二代に渡り在城したとされています。
関東管領山ノ内上杉家執事職跡目問題により起こった長尾景春の乱の頃、太田道灌状によれば1480年(文明12年)の正月に長尾景春が八幡山(雉ヶ岡城付近)で蜂起したとあります。これが児玉合戦であり、景春が鉢形城に篭城して道灌に敗れたのが1478年(文明10年)の7月でその1年半後であり鉢形城落城後も児玉郡付近には景春の勢力が残っていた事になります。
永禄年間(1558年~1570年)に北条氏康の三男鉢形城主北条氏邦は夏目氏の守る雉ヶ岡城を攻略しました。関東管領山ノ内上杉憲政が上野平井城を氏康に追われ越後長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃走した事により秩父、児玉方面の旧勢力が衰退し北条氏による実質的支配体制が始まったのです、氏邦は雉ヶ岡城に家臣横地左近忠春を配置して児玉方面を鉢形領に組み込んだのでした。その後1569年(永禄12年)の武田信玄による秩父侵攻の際に雉ヶ岡城は武田方に攻略されたらしく、付近に在る長泉寺には武田家の高札が残っているそうです。
 そして1590年(天正18年)豊臣秀吉による小田原城攻撃に際して雉ヶ岡城は前田利家らの攻撃により落城し、後に関東に入府した徳川家康に支配下となります。家康は雉ヶ岡城へ松平清宗を一万石で入城させますが、関ヶ原の合戦後の1601年(慶長6年)に二代城主松平家清は三河国へ三万石で移転となり、雉ヶ岡城は廃城となりました。

まぁこんな由緒のあるお城だったのですが、現場は桜の名所、規模の割に駐車場が少なく、駐車スペースを確保するのに若干苦労しました(^^;
園内もお花見グループや行楽施設を利用する子供連れの方々が多く、撮影エリアを確保するのが意外に難儀でしたが、今年一番温暖で風も無く、気分良く撮影に興じることが出来ました☆これで手軽に食事出来るお店があれば最高だったんですが…でも、ストレスなくシャッターを切れる環境だったのは良かったです(^_^)b

また時季を変えた中、城郭の特徴を生かして撮影したいロケーションでした。

今日も撮影、お疲れ様でした(^o^)v

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