Lucky☆Sardonyx

ばるご☆の戯言ブログです(^^)

一領具足(^o^)丿

2016-12-22 02:41:00 | 歴史
今年の大河「真田丸」が終了したことは先日書き綴ったが

来年の大河って

「女城主・直虎」

へっ(゜_゜)何ですか(?_?)

今年に引き続き戦国ネタみたいなんだが

史実について不明な部分が余りに多過ぎ

何かさ

昨年の「花燃ゆ」の戦国モノみたいになりそうなヨカーーン(^_^;)

主演のキャラもあるので、かつて大コケした「江~姫たちの戦国」のようなフィクションでファンタジーな展開にもならないと思うが

どうにも、かつて大当たりした「篤姫」の再現を目論んでいるようにしかみえない

柴咲コウねぇ…同じ姫なら王道・比嘉愛未か松下奈緒辺りを起用しろって!

戦国の姫様は、どこか凛とした美しさを感じられなければ(^^)/

凛よりも親しみ易さ優先の起用が目立つもんなぁ

って、本題はそちらの件じゃない

井伊谷という所謂マイナーに走るのであれば

そろそろ四国の大物を出してもいいのではないかということ

それは、ずばり「長曾我部元親」

まさしく戦国・四国における国盗りサクセス・ストーリーだ(^o^)丿

題目は・・・そうだね、「一領具足」でどうだろう?

サブタイトル付けて「一領具足~鳥なき島の蝙蝠」

鳥なき島の蝙蝠…織田信長が、元親をこう評したことで名高い

早い話が四国を馬鹿にし、元親の実力を過小評価しているのである(^_^;)

実際には…半分は間違いであり、あと半分は残念ながら正解だった。

生き馬の目を抜くような戦国の世にあって四国は長らく平穏な日々が続いた

幕府3管領の筆頭であった細川氏の領国が大半を占めるという現実が

彼等に安息の日々を与えたのかも知れない

それだけに元親のような優れ者が出現すると、その侵攻は総じて早く前倒しになる

だがしかし、所詮は「鳥」という強者のいない中で蝙蝠がお山の大将を気取っているに過ぎない

それ故に

ひとたび本州の精鋭部隊が攻め込んで来た日にはひとたまりもないというわけ(^_^;)

一領具足の誕生だって、貧弱な兵力を補う為の所謂「方便」であるともいえるし

でも、四国に於いては間違いなく「風雲児」であったに違いない

堺公方の流れをくむ平島公方を阿波にて庇護したのも

信長が追放し空位となっていた足利将軍の16代就任を睨んでのものだったかも知れず

本能寺の変による混乱の間隙を縫って足利義助(14代将軍・義栄の弟)を奉じて上洛

常識的に推移すれば、16代将軍就任に伴う足利幕府再興が実現した可能性は極めて高い

勿論、それが永続的なものでなく3日天下的な実現に終る可能性も否定出来ないが。。

・・・

随分と話が横道に逸れたが

一度は天下すら窺う勢いを見せた元親の生涯は

かつて大ヒットを記録した独眼竜・伊達政宗に通じるところがある

先代・国親の苦悩や次代・盛親の活躍も前後合わせてストーリーに加えれば

面白さに更に厚みが加わることだろう

それでも長曾我部が実現しないのは幕末の坂本竜馬と出身地が被るからというのもあるカモだが

その活動範囲は双方で全く違っていた

長曾我部ならば、本当の意味で土佐や阿波をアピール出来るかも知れない

だから

大河実現に向けて更に頑張れ、長曾我部^^

真田丸

2016-12-19 00:36:43 | 歴史
今日、NHK大河ドラマの「真田丸」が最終回を迎えた。

来週からの楽しみがひとつ消えちゃったな(>_<)

・・・

それにしても

豊臣家が大阪城を退去して四国へ転封?

それも四国4ヶ国とは

さすがに

絶大な人気を誇る「真田丸」であっても

無理があるんじゃないかヽ(^。^)ノ

夢はあるけどね

でも仮にそうだったとして

大阪に匹敵する本拠を何処に定めるのか

候補とするなら

讃岐・高松、阿波・徳島、伊予・松山

辺りになるだろうか

長曾我部の本拠である土佐・浦戸でもいいが

四国山地を隔てた反対側となり

京・大阪からは疎外感受けるので無いかと

まぁどちらにしても四国ではどちらを指定しても

大阪に比べて手狭な感は拭えない

どうせなら四国全体を大阪城のイメージで不沈空母化し

全体をひとつの城・要害と化す位のスケールで描くのならば

また違った魅力を見せるのカモだが(^_^;)

・・・

現実的な豊臣家存続の選択肢としては

大阪城を退去しての行き先は

旧主・織田氏の先例に倣えば

京を望める山城・伏見

かつての秀吉の本拠であった播磨・姫路

同じく秀吉によって拓かれた近江・長浜

この辺りに落ち着きそうだ

施政者にとって不可欠な行政能力及び外交能力

これらを有する数多の人材を関ヶ原敗戦によって喪失した

この時点で豊臣家は従来の為政者たる地位から転落し

私的ないち旧家と化したと表現しても過言ではない

とはいえ関ヶ原勝利イコール政権簒奪というわけにもいかず

その後暫くは豊臣・徳川の権力並立の二重構造が生じた

現実には豊臣という軒を笠にした徳川の母屋構築

しかしながら、それを逆手に取ったなら

五摂家に比する武家系摂関家に特化して

畿内のいち大名に収まる選択肢もきっとあった筈

かつての旧主・織田秀信が安土を捨て岐阜に落ち着いたように

大阪を捨て秀吉終焉の地であり京を望める伏見に落ち着く

旧主に倣い山城・大和にて20~30万石を領し

幕藩制外の家として関白職を勤め朝廷と幕府との橋渡し的存在に特化すれば

案外存続は可能であったのではないかと推測する

まぁそれを英断出来るような逸材が豊臣家臣団の中におらず

牢人衆による武力のみに恃んだ大阪の陣への突入を余儀なくされたというのが

現実の歴史の推移である

・・・

真田丸における様々な駆け引き

でも現実には真田は武人の域を出ない

どんなに勝ちを重ねたとしても、それは局地戦

かつて上田で散々徳川を打ち破っても大局をひっくり返すまでには至らなかったように

明日を模索出来る、所謂「政」たる駆け引きではない

同時進行で朝廷を動かし、勅命による大阪開城、それに伴う伏見転封と豊関白家の固定化

双方の面子が立つジャッジは、これ以外に無かったろうな(-"-)

・・・

さて、と…来年の大河を見続けるのかは

未だ検討中

検討中(^^ゞ

ちょっと

2008-01-11 23:57:23 | 歴史
意外でした☆尊敬する巨匠・竹久夢二が大正の御世にいち早く、当時流行していたコダック社製小型カメラ(通称”ベス単”)を手に入れ、熱心に写真を撮り続けていたそうです。現在残されている写真だけでも2600枚を超えており、当時としては異例の枚数だといえます。また、その写真も”夢二式”な構図のものが多く、まさに、絵筆をカメラに持ち換えた感のある、貴重な資料となっているとのことです。

”夢二式”な構図…おぉ!それって”ばるご☆式”な構図に通じる♪って…巨匠に対して何て罰当たりな物言い(^_^;でもね、「華やかな女性遍歴」っていう共通点はあるかな(^o^)まっ、僕の場合はあくまで「撮影上の」って但書が付きますが(^^;

夢二の愛した彦乃さんのような女性に憧れる…笠井彦乃(明治29年~大正9年)
紙問屋の長女として日本橋に生まれる。
大正3年、同じく日本橋に開店した「港屋」で夢二に出会い恋に落ちる。(当時18歳)
夢二との交際を激しく父に反対されるが、京都において二人は幸せな時期を過ごす。しかしそれもつかの間で、彦乃は病(肺結核)を得、25歳と言う若さでこの世を去る。11歳年下であった彼女こそ、夢二がその生涯で最も愛した女性といわれている。

11歳年下かぁ…(無言)まぁその辺はスルーしときまして、巨匠にあやかり私・ばるご☆が生涯で最も愛した女性は誰になるかって気になるところだ。現在エントリーされるレベルにあるのが学生時代のYちゃん、この世界に入る前の同僚Hちゃん、そして美弥ちゃんにれいな、あいかといったところか…巨匠の結婚生活は、岸たまきさんとの2年間、彼女とはその後も同棲を続け、間に儲けた3人の子供と共に生涯を送ったそうである。そんな形に捉われない価値観を共に出来る相手と今後出会うことはあるのだろうか?現在進行中(?!)のあいかに、その資質は(^^;?

今晩は、久々にまともな「戯れ言」を書き連ねた(笑)特に他意はない、ただ燃え上がる情熱に芸術が育まれるのは確からしいと感じた。情熱の黒グローブ、復活の兆しがようやく見えてきたかな…頑張るぞ!!!

梁山泊♪

2007-10-16 23:45:40 | 歴史
今晩は愛すべき我が撮影のお仲間達、勝手に「梁山泊」と名付けている
さて!では、その「梁山泊」の実際の歴史を紐解いてみると…

梁山泊のあった現在の山東省西部は黄河によって形成された海抜ゼロメートル以下の内陸低地であり、一帯は古くから黄河の氾濫が繰り返されることによって無数の水路と沼沢が生まれた。特に五代十国時代の944年の黄河の氾濫のとき堤防が決壊して河水が流れ込み、この地には大沼沢が生まれた。梁山泊の名があらわれるのは五代から北宋の頃で、近くに梁山という名の山があったことから梁山泊と呼ばれた。

梁山泊の上流にあたる現在の河南省東部では黄河の大氾濫が北宋の時代にも1019年、1077年と相次ぎ、梁山泊はさらに規模を大きくした。やがて11世紀の末頃から、水路とかつては小丘陵だった島が入り組んだ梁山泊は盗賊や政府に反抗する者たちの巣窟となり、宋王朝を大いに悩ませた。

北宋にかわってこの地を支配した金の時代の1194年には黄河の大氾濫が起こって河はこの地域で南北に分かれ、山東半島の南、淮河の方面に流れる南流が1855年まで700年にわたって本流となるが、その当初は黄河は梁山泊に注いで分かれていたという。その後、頻繁な河道の変遷を経てやがて干上がり始め消失した。

梁山泊近辺に横行した反抗者の中でも、北宋末期の12世紀初頭に河北で蜂起し山東一帯で10郡を制圧した宋江の反乱軍は猛威をふるった。14世紀の元の時代に編纂された『宋史』には「宋江、京東を寇す」「(宋)江、三十六人を以て斉・魏を横行し、官軍の数万に敢えて抗する者なし」とある。まもなく宋江の反乱は鎮圧されるが、やがてこの史実をもとに、梁山泊に宋江以下36人のアウトローたちが立てこもる物語が生み出され、明の初め頃に、梁山泊に集う108人のアウトローたちを主人公とする小説『水滸伝』へとまとめられた。
『水滸伝』は四大奇書のひとつとして中国で広く読まれたほか、日本にも江戸時代に伝わって民衆に好まれ、梁山泊の名は非常によく知られるようになった。このため、日本では「梁山泊」はアウトローの巣窟を意味する代名詞のように使われる。たとえば明治初期、大隈重信の東京の私邸には井上馨、伊藤博文ら若手官僚が集まり政談にふけったため、「築地梁山泊」と呼ばれるなど、枚挙にいとまがない。

現在の梁山泊は全く沼沢の面影を残していないが、小説中の山塞を復元した観光施設がある。

イギリスで発行された英語版水滸伝では「EDEN(エデン)」と表記されていた。

…うん、まさに僕達の集団意義そのものだ(爆)お仲間の中には、この「梁山泊」に難色を示される方もいらっしゃるようだが(苦笑)。。

上記の意味が転じ「優れた人物たちが集まる場所の例え」として使われることもあることを付け加えておく

そう!我々は選りすぐりの有能集団なのだ(爆)反主流を敢えて「革新」と称そう

その有能集団は今週末の全東京にて集結する予定前回の柴又外したから凡そひと月振りの参戦になるかな…僕が撮るのはやっぱりKちゃんか愛歌ちゃん撮るときホドのフルテンションではないが…お仲間さん達、宜しく♪

10月☆

2007-10-12 23:59:07 | 歴史
は、別名「神無月(かんなづき)」とも言いますね語源として以下のような説がありますが、いずれにしても「神無」は宛字としています。

醸成月(かみなんづき): 新穀で新酒を醸す月
神嘗月(かんなめづき): 新嘗(にいなめ)の準備をする月
神な月(かみなづき):「神の月」の意
雷無月(かみなしづき):雷のない月

一般には、出雲の出雲大社に全国の神様が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神様が居なくなる月の意味と言われており(但し、実際にいなくなるのは大国主系の国津神だけであり、天孫系の神々などは出雲に参集しないため居なくならない)、出雲では神在月(かみありづき)と呼ばれます。但し、これは中世以降に出雲大社の御師が全国に広めた説であり、「神無」の宛字から生まれた附会であるらしいです
さて、この神様達の集まりは旧暦の10月11日から17日までの間、出雲大社で開かれ、その後、佐太神社に移動し26日まで続きを行います。その期間に出雲大社と佐太神社では神在祭が行われます。この集まりが行われるようになったのは大国主神が日本の国土を開発した神様でその時自分の息子や娘を各地に配置し、その地を管理させたことに由来します。子供たちは年に1度出雲の国に戻り、父親である大国主神にその年の出来事を報告し、来年の予定を打ち合わせするようになったのです。後に大国主神系以外の天照大神系の神様も出雲へ来るようになりました。
 大国主神は天照大神に日本の支配権を譲ったとき、代わりに幽界の支配権を得たと言われています。物質的な物事については天照大神とその子孫である天皇家が管理しますが、精神的な物事については大国主神とその子孫が管理します。そこでこの会議では一般的に人の運命について話し合われます。なかでも誰と誰を結婚させるかなどと言うことも議題に上り、打ち合わせするといいます。ですから遠く離れた所に住む二人が知り合って結婚するようなケースは、この会議の結果生まれたカップルなのかも知れませんそこで出雲大社は縁結びの神様としても信仰されています

云々…ゲッ!結婚思わず墓穴を掘っちゃったかなそういえば以前、出雲大社にお参りしたけどご利益無かったよ~な。。
自爆ネタこれまで気を取り直して就寝しま~すではでは





テレビで

2007-09-21 23:54:19 | 歴史
いや~とんでもない説が出てきたモンだ

今日のテレビ東京の番組で「新説!?みのもんたの歴史ミステリーSP」というのがあった。この中のひとつに「新発見?信玄と家康が父子…東照宮に眠る暗号と野望」というのがあったが、これが何ともお粗末な内容で

可能性がゼロであるとは断言出来ないが、その論拠が家康の母・於大の空白の4年間や甲斐善光寺の位牌、世良田八幡宮の葵紋の背景にある武田割菱等々…かなりのこじつけ的な内容であった。
家康は信玄の子ではなく所謂「武田ファン」信玄のブランドに心酔したのだと僕は理解している。5男・信吉に武田家の名跡を継がせたのも然り…重農政策も武田家のそれとダブる。もともと徳川家は松平姓で、ルーツに藤原を称していたと聞く。家康の時代に新田流清和源氏に宗旨変え(?)したというが、対する武田家は同じ清和源氏でも足利や新田のルーツに当る義家の弟・義光流である。厳密には武家の棟梁となれる征夷大将軍には清和源氏、それも八幡太郎義家の流れを汲んでいることが条件であったのだ。源氏本家絶えて嗣子義親の弟・義国の系統である足利と新田が覇権を争ったのだ。だから義光の系統である武田・佐竹・南部等は始めから蚊帳の外に置かれていたといっても過言ではない。それにしても…確かに新田の一族には「とくがわ」氏が存在していた。但し「得川」である。これを無理矢理「徳川」に直したのだから笑える

そんなわけで、もっと周囲にも踏み込んだ中での考証をして欲しかったなと思った次第である。それでも、そんな歴史が面白い♪

発見!

2007-07-18 01:04:27 | 歴史
足利 義辰(あしかが よしたつ、生没年不詳)は、室町幕府第13代将軍足利義輝の子。 通称は左近。尾池玄蕃と称した後、道鑑と号す。

父の足利義輝が三好長慶によって京を追われ、近江朽木谷に潜伏しているときに生まれた。1565年(永禄8年)に義輝が松永久秀と三好三人衆によって暗殺されると、浅井家に身を隠す。浅井家滅亡後は、徳川家康の下で育つ。関ヶ原の合戦以降は、讃岐生駒家の庇護を受ける。熊本藩主細川忠利(細川藤孝の孫)は義辰を召し抱えようとしたが、生駒家の世話になっていることを理由に断り代わりに子の西山至之を仕えさせたとも熊本に赴いたともいわれる。

その後、西山家は熊本藩で比着座同列定席の家格として存続し、明治に至る。

いや~、足利将軍宗家の嫡流が意外な形で生き残っていたモンですいままで足利宗家に一番近い血統は境幕府からの阿波(徳島)平島公方かと思っていたんですが、13代将軍の血統が続いていたとは…それも、細川家や徳川家康も関わっていたというのはなかなか興味深い話であります。

将軍のご落胤みたいのは幾らでもあるんでしょうが…11代以降の将軍は京を追われ流浪してたのが多いから有り得ない話じゃありません。将軍位が安定していた頃、将軍世子たる嫡男以外は僧籍に入れられてた時代に比べると、逆に逞しささえ感じます。西山家は熊本かぁ…やはり貴種流浪伝説は九州に多いですね。

まだまだ勉強し甲斐がありますナ…更に頑張らねば

六文銭☆

2007-07-16 01:12:37 | 歴史
やはり奇蹟は起こらなかった久々に「カラダの気持ち」を観ていたら風神さんからご丁寧にもメールと携帯で中止のご連絡某チャンでは酷評されていましたが、まったくそんなことありませんゾ
残念ですが、相手が天候じゃ仕方がないです。。まっ、そのお陰で根本さんと優木さん拝めたのですから良しとしませんとそれにしても優しく癒される根本さんも良いですが、利発に美しい優木さんも素敵です毎週共演出来る三宅さんが羨ましいゾ

んで、今日は自宅で歴史書を読み漁っていました最近、戦国・真田氏の研究にはまってます赤備えと十勇士で有名な幸村もいいんですが、僕が好んで調べているのはその「氏」としての出自です。清和天皇の皇子・貞秀親王(盲目)が始祖であったとか、出身地が官牧(天皇家の所領)だったことからその管轄者である古代の名族・大伴氏であったとか…大方、現地の土豪といったところなんでしょうが、それっぽく「箔」を付けたがるわけですよ

信濃のほんのいち領主に過ぎない真田氏が武田信玄の抜擢によりメジャーデビュー、その後多くの名臣達が長篠の露と消える中で強かに生き延び(とはいえ、昌幸の長兄と次兄は当戦で討死)野望の権化・徳川家康を攻城戦にて三度も打ち破り、そのことが結果的に「天下」に於いての大牽制へと繋がったわけです。家康は真田氏の為に天下取りへの時間を少なくとも10年は浪費したわけで、それを思うと家康はよくもまぁ長生きしたモンだなぁ~と…権力を欲する恐ろしいまでの執念だ(苦笑)
そして真田の戦いの終焉(大阪の陣)と共に、長き戦国の世も終りを告げたのであります

但し真田の大名家は昌幸の嫡男・信之の系統で存続(信州上田→松代)、終生反逆(?)し続けた昌幸・幸村父子とは対照的に江戸時代を通じて譜代扱の大名として老中等要職も歴任しました。この辺のところがまた、歴史の示す人の関わりの深さというか面白いところですね

明日も調べ事に励み(笑)撮影会への参加は週末まで我慢します

南南西の行方…

2007-07-04 00:36:17 | 歴史
今日、お仕事で「四万十市」というのに出会った。町役場に問い合わせてみると旧中村市と西土佐村とが合併して誕生したのだそうだ中村市かぁ、懐かしい…いつしか仕事そっちのけで思い出巡りの妄想に走ってたりした(笑)

以前にも書いたが、この世界に入る前の僕は史跡巡りが大好きで、月いちペースで走り回っていたものであるその中でも南国・土佐は秋田・雄勝や伊予・松山と並んで特にお気に入りの地だった。土佐でも桂浜に訪れることが多かったが、一度だけ訪れた中村市&足摺岬~四万十川の世界もまた忘れ難い思い出の地である
当時銀座のH.O.に勤務していた僕は、業後に荷物をまとめ東京駅から夜行バス(ドリーム高知号)に飛び乗り西を目指した。時季は3月初め、まだ若干肌寒かった。翌朝一番で高知駅に到着する。そのまま駅のホームに入り、フリー切符を入手した。とさ黒潮鉄道にまで乗ることの出来る優れモノであるこの鉄道がなかなか面白く、車掌さんが巾着袋のようなものを持参し乗客宛運賃の集金を行うのだ。ちょっと可愛い系の人だったと記憶している(笑)終着点が中村駅だったのだ。この街はかつて土佐国司・一条氏の城下町として栄え、一時は南国の小京都として名を馳せたこともあった。そんな旧跡を巡りながら清流・四万十川を目指す。ここでは個人で屋形船を所有している先が多く、僕もその中のひとりに頼んで初春のクルージングを依頼した。確か、当時3,000円位だったか…その前に「兄ちゃん、何か辛いことでもあったんか?」と問われた。んっ?!そういえば、夜を次いでこの地に来たため、スーツにトレンチを羽織った姿だったのだ…何か、人生に絶望したとか思われたとしても無理はない(爆)苦笑しながら乗船し、清流を巡る。この時季は水かさが少ないのだという…確かに、河原の半分くらいしか川幅がないように感じた船の屋形内で面白いモノを発見!随分と大きな魚…聞いてみると、それは鮎だという。通常の鮎は1年でその寿命は潰えてしまうが、この地の鮎は年を越し、数年は生きるのだそうだ。だから、こんなに立派なホルマリン漬けに仕上がるのだな、と妙に納得した。
こうして楽しい時間は「アッ」という間に過ぎ(笑)僕はその日のうちに、今度はバスに乗り込んで南西の果て・足摺岬を目指したのだった。寒さを逃れて南の地に来た筈なのに、遥々南の地にまで寒波は押し寄せ、岬の灯台にて雪混じりの風に心までそよいだ件に関しては次回以降まで頁を待たせておこう

お城好きというあゆこちゃんに感化されたというわけでもないが(笑)かつての僕らしく「城」と「甲冑」に心血を注ぐのもまた楽しいのかも知れないなぁ

さて、眠。。今晩はこの辺で

たまには

2007-02-23 00:56:25 | 歴史
最近、撮影ネタとかモデルさんネタが多くて…我ながら、偏ってますなぁ

で、あんまり面白くないかもですが、今晩は歴史のお話です☆

っていうか、今年の大河結構イケます山本勘介って地味ですが(汗)無敵の武田騎馬軍団という伝説から離れ、一から武田信玄(晴信)を描いています。
実際、あんな感じだったのでしょう。あの猛々しいイメージの画像(現在では別人との説が有力)を想定しがちですが、本人は教養や行政能力にも長けた稀代の武将だったわけで、武田の伝説は三方ヶ原で壊滅的敗北を喫した徳川江戸幕府が神格化なほどに作り上げた虚像です。この「武田流」という兵法や軍学にこだわったことが幕末の戊辰の役で幕府軍の敗北を決定付けたしまう結果にも繋がってしまったのですが。。

それはそれとしまして、あのテーマ曲はいい何か、勇気を奮い立たせてくれるというか…あの旗が一斉に翻る瞬間が特に良い!
なかなか週末は撮影会の関係からリアルタイムで観ることが出来ないのですが(汗)次回も楽しみにしています

「風林火山」か…見習おうっと


日本史のススメ☆

2007-01-26 00:40:01 | 歴史
老後については決めている。日本史の研究をしながら過ごすぞぉ♪
例え人生に絶望したとしても僕にはこれがあるから大丈夫なのである☆
図書館にこもればたくさんの資料がただで手に入るし、何といってもお金がほとんどかからないのがいい(爆)どんなに撮影の方の予算を圧縮したとしても基本的な部分は削れないから。。そう考えると「コスト0円」は魅力である♪
最近では、わざわざ図書館にまで足を運ばなくてもネット上からかなりの知識を得ることが出来る。一番素晴らしいところは、俗説も割愛されることなく情報として羅列されていることである。ネット・スタディでかなりの「お利口」になったよな気もする(笑)便利な時代になったモンである。

また久々に歴史ネタ書こうかな…追々でね☆それでは、また♪

回避☆関ヶ原

2006-12-13 01:02:31 | 歴史
最近モデルさんネタばっかりで…ちょっと「変なヤツ」と化してますので今晩は歴史ネタで人間性を中和してみます。

大河ドラマ「功名が辻」も終了してしまい、ちょっとさとちゃん似の仲間由紀江さんを観ることが出来ずに落胆しております。。じゃなくって今晩は山内家躍進の舞台となった「関ヶ原の戦い」これが果たして回避出来なかったのかを検証してみます。

まず、合戦そのものが本当に必要だったのか?客観的に観ると答えは「NO」です元凶である家康は高齢であり、寿命もそうは長くない…確かに、豊臣家の防波堤的存在であった前田利家が死去し、パワーバランスが崩れかけた部分はありましたが、諸大名の多くは朝鮮出兵でのダメージが癒えておらず(完全終結から僅か2年)とてもまともに合戦に取り組める状態ではありませんでした。更に、これは西軍によく見られた傾向だったのですが戦国大名から豊臣政権下の大名へとモデルチェンジした面々は現状維持で手一杯、天下取りや領土拡張の野望など毛頭ありませんでした。むしろ、そういった野望は発展途上にあった豊臣政権中枢にあった譜代大名の面々にあり、それらの多くが東軍に属し徳川家に味方することにより豊臣家の栄光を傾けたことは歴史の皮肉であります。
石田三成始めとする忠義心厚い急進派が暴発せず、政治力による駆け引きで時間を稼いでいたならその後の歴史は随分と違ったものとなっていたことでしょう。
ここで「キーマン」となるのが家康の次男で秀吉の養子にもなったことのある悲劇の武将・結城秀康です。彼を豊臣五奉行の宇喜田秀家のように豊臣家の藩屏として厚く遇していれば、彼が豊臣家と徳川家の緩衝的な立場となり平和的な二元政権が誕生したかも知れません。いや…上手くいけば、彼が250万石の徳川家を二つに割く役割を果たせたかも知れず…と、いうのも徳川家の世子・秀忠の当時の評価は必ずしも高いものではなく、同じく家康の血を引く秀康の存在は一枚岩を誇る徳川家臣団を分裂させられる数少ないチャンスのひとつでした。親・豊臣派として秀康を遇し、秀頼の後見の一人として君臨させ、あわよくば秀忠の勢力を討滅させる…結果、徳川家は100万石程度の大名として存続させるというシナリオです。
実際、この結城秀康を豊臣政権下で重用しようという動きはあったようです。所謂「幻の六大老制」です。この構想は、徳川家の政権下での勢力がそれによって徒に膨張し過ぎるのを回避するために実現しなかったそうなのですが、何とも残念な話ですあと10年、豊臣政権が主体性をもって存続していれば、重商主義的な貨幣による流通経済が主流となり、秀吉の目論見通り経済力をもって諸大名を統制する体制が実現したことでしょう。大航海時代や産業革命も欧米よりも早く到来したかも知れません。江戸時代のような、重農主義による「質素倹約、日本国民みな貧乏」な閉鎖的な社会は成立しなかっただろーと。。ただ、日本としての独自の体力は蓄えられなかったでしょうね、例えば各地の特産品というのは諸大名が石高以外での収入を得るために編み出したものです…鉱山収入は幕府に握られていましたからね貿易依存型の我が国が、その割に意外に腰が強いのは江戸時代に地道に国力を高めてきた賜物だといえるのではないでしょうか。

本題に戻ります…それでも歴史の流れは「対決」を選択、各々の大名は家運を賭けて双方に別れて戦い、結果日本はその後250年余の泰平を享受し得たわけです。

何が正しいのか、何が望ましいのかっていうことは誰にも分からない…その答えは時代と共に変遷していくから…でも、それが「悪くない」とは言えるんじゃないかな?

土佐の黒潮☆

2006-11-28 00:48:48 | 歴史
「功名が辻」今週も観ました山内一豊って人物は、以前も書いたかも知れませんが「嫌い」です。特に僕は土佐(高知県)の前国主だった長曾我部氏のファンなので尚更なのかも知れません。桂浜や四万十川の美しさ、温暖で穏やかな気候に相応しくない粛清の嵐これは土佐に限ったことではなくお隣の阿波(徳島県)でも見られた先の四国征伐の直後に蜂須賀家政による三好氏や足利氏(平島公方家)といった旧勢力の駆逐という所謂「占領政策」でした。在地勢力の分断から一掃へ、ここに「兵農分離」のもうひとつの実態があります。一両具足に代表される長曾我部氏の残党は武士としての身分も与えられず、一段低い格式の「郷士」として長い江戸時代を過ごさなければなりませんでした。
そんなわけで江戸時代の四国は、讃岐(香川県)に御三家・水戸からの分家である高松藩、伊予(愛媛県)に家康の異父弟・久松(松平)松山藩、阿波に親徳川大名である蜂須賀徳島藩、そして土佐に山内高知藩と全域に「親・徳川ネットワーク」が張り巡らされることとなったのです。ところが…その割には、幕末維新に当って彼等が幕府の藩屏になるどころか逆に倒幕に活躍する英傑を数多く輩出する結果となったことは歴史が生んだ皮肉としか言いようがありません

それにしても…桂浜って美しいドラマで先週に引き続き拝見しましたが、雰囲気を感じるだけで心が穏やかになってきますかつて罪を得て都を追われ彼の地に辿り着いた貴人達も、この地の美しさに心奪われ暖かな気候に心解されたのでしょう…何となく分かる気がします。土佐日記、中村一条国司家、南学派…未開の流刑地に似合わない文化水準の高さも、彼の地が如何に彼等に愛されていたのかを物語っています

とにかくね…四国って時間がゆっくり流れているかのよな錯覚に陥ります。決してそんなわけないんだけどね…一人旅で心の洗濯するのにお勧めです

今度、旅行の回顧録書こうかな…ではでは

誰が竜馬を殺したの?!

2006-11-02 01:05:57 | 歴史
今晩「歴史の選択」ってNHKの番組を見ました。今回は「坂本竜馬暗殺-黒幕は幕府か薩摩藩か?」というテーマでしたが、僕は薩摩藩ではないかと思っています。歴史の勝者は必ず自らを正当化する過程に「影」を残すものです。薩長を核とした新政府構想にあって幕府勢力は「悪」でなければならず、その象徴として排除されるべき存在でなければならない。それをアピールするために武力で派手に相手を粉砕しなければならないのです。そんなラディカルな構想に対し、両者の共存の上に立つ新政府作りを唱えた竜馬の構想は邪魔な散在でした。幕府に暗殺の濡れ衣を着せ、共に葬り去ろうとしたというのが真実なのではないかと感じます。

では、竜馬が明治に至っても生存していたとしたら…どんな風に歴史は変わっていたでしょうか?薩長の西郷や木戸、公家の岩倉のように新政府の高位高官&要職を歴任、日本の歴史に画期的なインパクトと発展をもたらした…う~ん、それは多分違う展開になったんじゃないかと思います。同じく維新前夜に世を去った長州の高杉晋作辺りでしたらそんな感じもしますが、竜馬については当初より野に在って官ではなく民の立場から日本という国にインパクトを与えたのではないかなと思います。同じ土佐の岩崎弥太郎が起業して現在の三菱財閥の基を築きましたが、竜馬に至っては更に大きなスケールで何かを残したんだろうと。貿易、開拓…そのことで史実よりも豊かな日本を形成出来ることに繋がったのかも知れない、函館・五稜郭の夢もあんなに犠牲者を出すことなく、もっと大きなスケールで実現出来たのかも知れない。薩長による新政府の勝利は、官主導による貧しい国・日本の出発でした

まっ、維新の前後で三傑を始め名だたる面々は鬼籍の人となり、残された伊藤や井上といった小者達が政治を牛耳ってきたわけですから、それも仕方のないことかな歴史は繰り返す…それは現在の政治にも通じることなのかも知れませんね

幕末の歴史は戦国と違って地味なんだけど、それぞれの夢や理想といったメンタル面での駆け引きやぶつかりあい…イデオロギーというのかな?が面白いです。また時間を作った中、ゆっくり取り組むことにします。

かずとよ☆

2006-10-23 00:36:20 | 歴史
NHK大河ドラマ「功名が辻」もいよいよ佳境へと入ってきました。太閤秀吉死して舞台は天下分け目の関ヶ原へ…主役の山内一豊が東軍に就くのを決めたところで今回は終わりましたが、まぁ随分と美化されてまして演じるのが上川さんじゃカッコ良過ぎですし(笑)実際の一豊はあまり融通のきかない中年オヤジだったようです。関白秀次事件では宿老の地位にありながら主君・秀次を見捨てて責任も取らず、また関ヶ原の役では僚友・堀尾吉晴の建策を横取り、まんまと土佐一国をせしめ、領国・土佐では親睦の相撲大会を行うと偽って長曾我部遺臣を誘い出して捕縛し皆殺しにしたり…等々、あまり美しい話が聞こえてきませんそれでも、徳川・江戸時代をしたたかに生き抜いたことによりその存在は「正義・美談」として歴史に語り継がれてきたわけです。一豊の妻・千代の美談の数々も、実際は「妻は夫に尽くすもの」という江戸時代の家父長政策に利用する為、実際より誇張されてきた部分も多いと聞きます。戦国時代、男女(夫婦)の立場は同格であったという点をブラさずにドラマを見ていくと当時の二人を推すことが出来ると思います。

それにしても…仲間由紀江ちゃんはいいですなぁ黒い髪と瞳も素敵ですが、あの堂々とした物言いと可愛い奥方振りにウットリあんなメリハリというか押し引きがあったら人生楽しいカモ…真剣に結婚も考えてみよっかなな~んて思ったりして戯言、戯言…ではでは、おやすみなさ~い