夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

吾々人間は『久遠の昔』から、『永遠の今』を生きている無限なる神の子、佛の子である。

2016年03月16日 20時49分38秒 | 真理の言葉
吾々人間は『久遠の昔』から、『永遠の今』を生きている無限なる神の子、佛の子である。

ゆれる雪柳を窓越しに走り、幼心の淡い想い清かにめぐる貴女とのひと時。



舎利弗(しゃりほつ)よ、正に知るべし、我本請願を立てて一切の衆をして我が如く等しくして異なるを無からしめんと欲せり、我が昔願う所の如き、今者(いま)已に満足せり。
法華経方便品



やがて朝顔に朝顔の花が咲くのは、種の中に、肉眼にはまだ見えなくとも、既に朝顔の花がある。あるからこそ朝顔の花が顕れて来るのであって、無いものが肥料その他の結合によって現れのだったら、肥料の配合の具合によっては、朝顔の蔓に桜の花が咲くかも知れない筈であるけれども、けっしてそんな事はない。朝顔の種からは朝顔の茎、葉が伸びて朝顔の花が咲くのみであります。即ち朝顔の種の中には既に『朝顔の花の理念』が現成しているのです。
その種の中に既に現成(咲いている)せる花が現実の世界に顕現するのには、太陽、温度などの色々な条件、過程、方便等が要るのでありますが、それは、条件、過程、方便等によって創造されるのでなく、どこまでも既に存在するものが現成するのであります。
五百弟子が佛になるのは、既に彼らが佛であるからであります。
吾々が法華経を読み、また法華経に書かれている真理と同じ言葉を読み、また聞くことによって、佛と成ることが出来るのは、その真理の言葉が『実相(ほんとうの姿)』を引き出すからであります。
なぜ真理の言葉が実相を引き出すかと云いますと、吾々の実相は『神のコトバ』(神の生命波動)であり、真理のコトバはそれと同じ意味、同じ波長をもっているからであります。
法華経に書かれている真理は如来の寿命は無量寿であり久遠の昔から成仏しているのであり、吾々人間もわが(釈迦)如く等しくして異なることなしと云うことであります。
神の子、佛の子と云っても同じ意味であります。







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