夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

施餓鬼会・水子供養・先祖供養・・・永遠なる、安楽に満ちた平安への道のり。

2018年08月20日 19時23分05秒 | 日記・エッセイ
旧藩主、諫早家の菩提寺である浄土宗 常楽山九品院 慶巌寺で施餓鬼会(せがきえ)の供養がありました。

境内の水子地蔵の前で水子供養、施餓鬼供養の後に先祖供養が行われました。

沢山のお坊さんがお堂を回り散華をなされますとお堂が浄まり、

お坊さんから当家の先祖様と戒名、施主が唱えられますと

読経のなか香を手向けて合掌、お念仏を唱えお参りしました。

以前は旧暦の七月十五日に『盂蘭盆会』が行われていたそうです。

その時期はちょうど満月の頃であり、送り火と満月の光に照らされて、

ご先祖様がお浄土にかえって往かれるそうです。



月かげの いたらぬさとは なけれど ながむる人の心にぞすむ

                                             法然上人

先祖供養はご先祖様と私たちと未来の次世代へのバトンタッチの機会であり、

ご先祖様と自然と私たちが共に生かされている因縁を結ぶ素晴らしい法会であります。

そして飢えに苦しむ一切衆生に往生を祈る施餓鬼供養と先祖供養の功徳により、

ご先祖様、私たち、有情非情、生きとし生けるもの、有りとしあらゆるものを

平安な世界へと誘う大切なおつとめであります。




人生はすべて、仏の光を浴び仏に向かって歩むところに

その意味があるという教え―は、

教理(ことわり)も利益も最も奥深いものです。

自らも他をも、兼ねて利益し済度(さいど)します。

獣や禽(とり)たちも例外ではありません。

春の花はやがて枝の下(もと)に散り、秋の露ははかなく葉の上で沈(き)えていきます。

逝(い)く川の流れは常に流転して住(とど)まることがありませんし、

急風(つむじかぜ)は幾たびか、音をたてて過ぎかつ消えていきます。

このように六塵(色・声・香・味・触・法)の世界はすべて無常であり、

人々を溺らせる『迷いの海』であり、常・楽・我・浄という四っの特性を備えた涅槃の境涯こそが、

彼岸にそびえる目標の岑(みね)なのです。

すでに三海(このよ)は私たちの真の自由をさまたげる束縛であることがよくわかりました。



                            弘法大師空海・・・三教指帰(さんごうしいき)


『注』


済度(さいど)・・・迷える衆生を導いて、さとりの境涯に救い渡すこと。
六塵・・・色・声・香・味・触(ふれられるもの、感覚器官)・法(思考の対象)
     人身にいって本来清らかな心をけがすから塵という。
常・楽・我・浄(じょうらくがじょう)・・・永遠であり(常)、安楽に満ち(楽)、絶対であり(我)、清浄である(浄)
                     ためであ る。
涅槃・・・まよいの火を吹き消した状態。











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