夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

悩みを突き抜けて喜びにいたれ(Durch Leiden Zur Freude)

2017年05月04日 19時25分59秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
悩みを突き抜けて喜びにいたれ(Durch Leiden Zur Freude)

今、エレーヌ・グリモー(Hélène-Rose-Paule Grimaud)のヴェートベンのピアノ協奏曲第5番を聴いています。
ヴェートベンのピアノ協奏曲第5番を聞いていると マルタ・ アルゲリッチ(Martha Argerich )・マウリツィオ・ポリーニ(Maurizio Pollini)・ウラディーミル・ダヴィドヴィチ・アシュケナージ Vladimir Davidovich Ashkenazy)
また新しい弾き手のエレーヌ・グリモー(Hélène-Rose-Paule Grimaud)等の夫々の弾き手で違いがありますけれども、

ヴェートベンの音楽性はクラシック音楽家の中でもずばぬけて霊感的であり、
心の底の宇宙意識にひろがり、私達に優しい愛と力強い生命が迫ってきます。
それもその筈であります音楽家で致命的な耳を患い、晩年は殆ど聞こえない状態で困難を克服して
交響曲第9番などの曲を直感的に創作し続けました。
ヴェートベンの死を迎える3年前に交響曲第9番を自ら初めて指揮をしましたが、客席に背を向けて指揮をして彼には大喝采、大拍手も耳に入らなかったそうであります。
そばにいた歌手が彼の手をとって聴衆に向かわせたので始めて大成功だと気がついたそうであります。

交響曲第5番はいきなり烈しい4つの音符から鳴り響き始まります。
この音についてヴェートベンは弟のシントラーに『こうして運命が扉を叩く』と言いました。
こうして交響曲第5番の別名を『運命』Schicksal(シクザル)というようになりました。

私も若い頃からヴェートベンの曲を聴いて励まされ、苦しい時にも勇気づけられてきました。
ヴェートベンは私にとっては時代を超えた恩人であります。


彼我を超えたアートマンの魂

2017年05月04日 12時06分01秒 | コラム・人文
連休に入って爽やかな天気が続いています。
山の裾野からひろがる若緑がまるで花びらのように感じられます。
東京の次男坊から珍しく早朝から電話ありました。
仕事が大変忙しい事のようでした。

東京も若い頃に夢を抱いて上京した人々の高齢化が進み
また各々が孤立していて様々な問題があるようでした。
人と人のつながり、また自然、故郷との関わりは一度に築くことは難しいことであります。
早い時期から勇気をもって、一歩一歩築いて行くことが肝心であります。
其れには隣人、有情非情、生きとし生けるもの、有りとしあらゆるもの対して感謝して
今、出来るものを無条件に与える(仁徳)、こころ根を養うことが必要であります。
そのことが廻り廻って我が身に温かい優しい心が与えられることになるのです。

探求することもなく実践もない信仰は本当の信仰ではないのである。
吾々の目標は理解することであり、崇高な信仰をもった知恵に他ならぬのであって、
かかる信仰こそ吾々は直感的に理解することが出来る信仰であり、吾々の善悪の行為の真の評価、
すなわち物質界たる影の世界(現象世界)へうつし出される吾々の不完全なる表現が
いかに自我(ego)を反映しているかという反省によってのみ、
吾々は正しき宇宙の根本原理あるアートマンの知恵を享受できるのである。
このことが真の信仰であるのである。