夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

無事

2017年05月20日 18時48分42秒 | コラム・人文
無事

圓光大師の和讃に『くれにはけむりとなるもあり』という言葉があります。
自宅に帰り、妻に煙とはならず『無事』に帰りましたと告げることが日課となっています。
無事という言葉は常々、普段に使っている言葉ですがあらためて調べてみると、
よく寺院に『無事』と揮毫された掛け軸、扁額とが掲げられていますが仏教辞典で調べますと

『むじ』とも読み、なすべきわずらいがない。障りがないこと。
生まれながらにして仏である人間には、求めるべき仏もなければ歩むべき道もないこと。
仏道をきわめ尽くして、もはやなすべきことのないこと。
と説かれています。


『むじ』(無事)と読むことが悟り(幸福や自由)の障りになる事柄、穢れが無いことであり、人間本来の実相である『仏』其のものであると云うことを示しているのです。
もともと仏教語であったのが日常の言葉に使われていますが、本来は深い宗教的な深遠な世界を意味していたのです。

ぬれぎぬ・・・・・ 白隠禅師のお話

謹厳で律儀な商家の主人が駿河の松蔭寺(しょういんじ)の和尚、白隠を神さまのように尊敬していました。
その娘が嫁にもゆかないのにおなかが大きくなってしまいました。
いったいどこの誰の胤をやどしたかときつく問い詰めると
相手は白隠さんですと答えると驚いて一言もいうことが出来なかった。
月満ちて、娘は赤ん坊を生み、腹にすえかねた娘の父親は生まれたばかりの赤ん坊を抱いて
松蔭寺の白隠のところへ怒鳴り込んだ。
さんざん恨み、ののしって赤ん坊を白隠のところに置いていった。
白隠はなにもいわないで、赤ん坊を育てた。
飴湯や米の粉をつくって大切に育てた。
懐に抱いて、托鉢に出かけ、家々の門前に立ったのです。
いままで活き仏さんと拝んでいた人々が手のひら返すようにうしろ指をさして集まってこなくなり、
門弟たちも一人去り、二人去り離れていきました。
ある冬の日に雪の降るなかを素足にわらじ、黒衣の姿に懐に赤ん坊を抱いて、
乞食しながら貰い乳をして歩いていた白隠を窓からのぞいて見た商家の娘は、
堪えかねて泣き出し今まで嘘をついていたことを父親に話し、
実はあの子は隣家の久さんの子ですと事の真相を打ち明けた。
謹厳な父親は直ぐに松蔭寺にかけつけ平伏し、涙をこぼして親子の罪をわびたのです。
白隠はやっぱり父親があったのかいと言い、喜んで赤ん坊を返したのです。
白隠は律儀な娘の父親を説いて、隣家の久さんを養子にする話をまとめ、
めでたく無事に丸く納めたのです。