CuniCoの徒然・・・岩下邦子の独り言

日々の暮らしの中で、立ち止まったり、すれ違ったり。私の中のアレコレを思いつくまま、気の向くまま。

『上手に歌う』こと・・・

2016-10-10 07:00:54 | 表現にからむ様々なこと
先日、NHKの歴史秘話ヒストリアで・・・
日本語(標準語)ができる時の話をしていた。
そのとき、私の謎がふととけた・・・

日本人って、歌を『上手に歌おう』とする。
まぁ、何事も『上手』な方がいいのかもしれないが、
どうも私は、この『上手に歌う』ということが、なじまない。

なんだかんだ言って、歌は苦手な私が、
六年前に、何の因果か『歌』とかかわりはじめ、
人からお代を頂戴して歌うようになってから、ずっと・・・
『うまく歌おう』なんて思っていないのに
つい『うまく歌おう』としてしまう自分が何処かにいる・・・
当然、苦手な歌が『うまく歌える』はずもなく、
自分の身体と感情と声がちぐはぐになってしまうわけで、
『うまく歌う』のではなく、
言葉と対峙したときの自分をもっと、大切にしなきゃと思い続けてきた。

それにしても、なぜ、こんなにまで『うまく歌う』ことを是とする風潮があるのだろう。
『きれいな歌』を心地よく感じることが世間一般なんだろう・・・
上手く、きちんと・・・歌おうとするのだろう。
誰しもが同じように歌うのだろう・・・違う人間なのに・・・

『歌う』ことが、心や気持ちの動きとともにあると思う私には、とても不思議なことだった。
心や気持ちは・・・つまり、なんというか、そんなに整理されているモノデハナイ。。。

で、日ごろ、そんな素朴な疑問を持ちながら過ごす私は、
歴史秘話ヒストリアで、標準語を勉強する方法として、唱歌が生まれた・・・と知った。
なるほど、一律に『きれいな日本語』としての標準語を覚えるために『唱歌』か・・・
心の発露としての歌ではなく、標準的な、言語を平均化するためのツールが歌だったんだ・・・
なんとなく、いままでの私の疑問が解決した気がした。

日本語の美しさを歌で伝える・・・なるほど、そうか。。。
標準語としての統一的な言語を身体にしみこませる・・・なるほど、そうか。。。

私の『歌』ももちろん『言葉』と対峙するわけで、
ただ、その『言葉』は標準化されたものではなく
岩下邦子の体温・感情・呼吸とともに生まれるものだということだ。

音楽なので、そこには、メロディーもリズムも存在するが、
私の心が、なくては、私の『歌』は生まれないし、存在しない。

これまでのライブの準備は、内向きに作業を進めてきた。
多くの時間を『自分』や『歌』に向き合いながら、過ごすことをした。

春のライブ以降、私は、他者の表現するものに触れる機会を多く持つことにした。
時間もお金も限界があるが、できうる限り『表現』と出会うことにした。
歌ではなく芝居であったりするわけだが、
私の心や感情は、それらに、多くの刺激をもらった。

そのことが、どこまでライブに影響するか・・・
自分でもよくわからないけれど、良い時間の過ごし方だったことは間違いない。

最後のレッスンは、13日。
レッスンまでに『歌』に集中できる時間は限られている。
それでも、自分の時間が、すべて『表現』と無関係ではないと思っている。

今日は『お母さん』に別れを告げる日だ。
遅番前に、お別れに行く。
おかあさん、あっちで、兄弟姉妹が待っている。
花札でもやりながら、たまには、現世を覗いておくれ。

今日は・・・大好きな『お母さん』の告別式。

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