「靴」とか「鞄」と書くと革製品でなければならないような感じがしますが、布製鞄やゴム靴であっても漢字の部分は布にしたり、ゴムにしたりはしません。
革のカバンを鞄と書き表すようになったときは、うまく表わしていると思われたでしょうが、布製のカバンやビニル製のカバンが普及してくると、文字が体を表わさなくなります。
これがバッグとかシューズのようにカタカナ語であれば、革でも布でもビニルでも矛盾はしません。
漢字が表意性があるために見ればその意味が分かるというのは、便利なようで不便なところもあるのです。
「駅」という単語でも、現在では馬を置いているわけではないので、文字と内容がずれてしまっていますが、「ステーション」なら馬がいなくても問題がありません。
そればかりか「駅」は鉄道の駅に変わっただけですが、ステーション(station)はサービス拠点という意味から「宇宙ステーション」、「放送ステーション」のようにも使われるようになり、意味が広がっています。
馬を置いているときは「駅」は文字から意味が伝わる要素があったのですが、駅の内容が変化してしまうと名は体を表わさなくなってしまいます。
カタカナ語のほうは名が体を表わしていないので、文字を見て内容が分るということはありませんが、、内容が変わっても差支えがないのです。
図に示しているのはポピュラーな果物について、英語と漢語の意味の広がりの違いです。
見れば分るとおり、英語は多義的で日本人の感覚では単純に思われるものでも、いくつかの意味を持っています。
「リンゴ」といえば日本人の場合ならリンゴの実のことと受け取られ、リンゴと聞いてイメージするものが人によって違うのは、赤いリンゴか青いリンガかとか、西洋リンゴか和りんごかといった程度です。
英語の字典を引くと、「大字典」といった詳しいものでなくても、いくつもの意味がのっていて、国語辞典や漢和辞典とだいぶ様子が違います。
桃とか梅とか書くと木偏が付いているので、特定の植物をさしていることは、意味を知らなくても推定できます。
どんな植物を表わしているかは、兆とか毎のような表音要素からでは分りませんが、植物であるということだけは分ります。
英語のほうは文字面からだけでは何をさしているか分りません。
木偏のようなものが付いているわけではないので、これらの単語を知らなければそれが植物かどうかの見当すら出来ません。
その反面限定要素がないので、図のように多義化することができています。
このように漢字で名詞を表現した場合は意味が限定される傾向があり、英語と比べると多義化しにくいように見えます。
どちらがよいかは一概に言えませんが、表意性があるから漢字が便利だと断定するのは考えものです。
漢字は字の形で意味を表現しようとする傾向があるので、、出来たときはよいのかもしれませんが、内容が変化したときついていけなくなるので不便なのです。
機械は木製でなく金属製なのが普通ですが、そうしたことには目をつぶって使わなければなりません。
字の構成などに気を使わずに、文字を処理しなければ不便になり、かといって字の構成に鈍感になっててしまうと漢字の特性が無意味となってしまいます。
意味の変化が速い時代は漢字にとっては難しい時代なのです。