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60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

周辺視野と視幅

2007-01-20 22:46:34 | 注意と視野

 図の中央の赤い線に視線を向けた状態で左右を見ると、上の二行の黒い丸はいちばん端まで確認できます。
 次のひし形もなんとか確認できます。
 ところが4行目の漢字の場合はどうでしょうか。
 左右3文字ぐらいづつは読み取ることが出来ても、その外側となると読み取りにくくなるかもしれません。
 速読術などでは目を動かさないで文字や図形などを認識できる範囲を、識幅という風に呼ぶらしいのですが、文字を読もうとすると識幅は狭まると言います。
 実際、文字を読もうとせずなんとなく4行目を見ると、もっと多くの漢字が見えたような気がするはずです。
 また、眼を閉じていてパッと眼を開いた瞬間に4行目を見ると大部分の感じがよく見えたように感じます。
 そうすると、「文字を読もうとして注意を向けるから識幅が狭まるのだ」という説明は、ナルホドと思うでしょう。

 ところで5行目は察という字ばかりが並んでいます。
 真ん中の赤い線に視線を向けて左右を見た場合どの範囲まで読み取れるでしょうか。
 いちばん端までは無理としても、4行目の場合よりは多く読み取れるのではないでしょうか。
 これは察という文字であると言うことがわかっているから、実際にはハッキリと見えない範囲であっても察という文字だと判断してしまうためです。
 いちばん端のほうになるとハッキリと形をとらえられなくなるのですが、左端の黒い丸はそれと認識できるでしょう。
 となると漢字を読もうとすると識幅が狭まるといっても、黒丸はわかるのですから、漢字が読み取れないのは複雑な形だからではないかと考えられます。

 そこで6行目を見ると、真ん中の赤線に視線を向けたまま左右両サイドを見ると、両端の一と二という文字はハッキリとらえられるけれども、間のいくつかの漢字は読み取れないでしょう。
 つまり単純な形をしていれば離れた場所の漢字でも読み取れるのです。
 このことは漢字でなく記号を並べた7行目について見ればよりハッキリします。
 真ん中の赤線に視線を向けて左右の記号を見ると、真ん中に近い部分はもちろんハッキリ見えるのですが、遠いところでも○や□のように見慣れたものや単純なものが認識しやすくなっています。
 つまり中心から離れた形は、細かな部分に注意しなくてもそれとわかるものであれば認識しやすいということなのです。


見えていて気がつかない変化盲

2007-01-09 22:40:24 | 注意と視野

 アメリカのダニエル.サイモンという心理学者の実験で、
 1. ヘルメットをかぶった人物が女子学生に道を尋ねています。
 2.その間をパネルを担いだグループが通行しようとします。
 3.パネルの後ろ側を持った人物と道を尋ねていた人物がパネルの陰で入れ替わります。
 4.女子学生は相手が入れ替わっていることに気がつかず答えを続けます。

 これは変化盲という現象についての実験で、たまたま一人の人についてそうだったということではなく、何人もの人について実験したところ、半数近くは入れ替わりに気がつかなかったそうです。
 この現象は何かに注意を向けることで、他のことには注意が向けられないため、見えているはずなのにちゃんと見ていないとということで、「不注意による盲目」などといわれています。
 人間の目は視界の中のすべての部分が眼には入っても、それをすべて意識したり記憶しているわけではないようです。
 このようなことから、人間の認知や意識は穴だらけだという風にいわれたりもします。

 このように実験の結果を示されれば、ビックリしてまさかそんなことあるだろうかと思うか、人間の認知能力は頼りないものだななどと考えたりします。
 しかしこの実験の場合もし、道を聞く人物が聞かれるほうの人物の知人であるとか、誰にでも知られているような人物だったりすればどうでしょうか。
 そうした場合はほとんどの人が入れ替わりに気がつくのではないでしょうか。
 ということになれば、不注意だから入れ替わりに気がつかないというよりも、道を尋ねている人物が誰であるかということに関心がないということではないでしょうか。
 相手の人物に関心や関係があれば、その知識が自動的に呼び起こされているので、意識しなくても応答の仕方なども影響を受けているはずで、相手が入れ替わっても同じような応答を続けるということはありえないのです。

 知らない人物に道を聞かれて答える場合に、その人物がどんな人物かということに関心が向く場合もあれば、向かない場合もあります。
 関心がなければその人物に注意が向かず、記憶に残らないので入れ替わっても気がつかないということが出て来るわけで、不注意だとは必ずしもいえません。
 不要なことにエネルギーを使わないと言うことで、適応的なあり方なのかもしれないのです。

 


注意を向ける方向が拡大視される

2007-01-06 22:51:28 | 注意と視野

 夏目漱石「虞美人草」の一場面で、哲学者の甲野さんは京都の旅館で、寝転びながら襖の筍の絵を見て、横になって見ると筍の背が低く見えると言います。
 これに対して、相手の宗近君は、目が横についているからだろうと、もっともらしい理由付けをします。
 たしかに、図の筍の絵をクビを横に90度傾けて見ると筍がずんぐりして見えて、背が低く見えるような気がします。
 これは心理学で知られている縦と横の錯視で、同じ長さのものが縦にして見たほうが横にして見た場合より長く見えるのです。

 小説の中でのこの議論はここで終わりなので、漱石は「それならなぜ、眼が横についていれば背が低く見えるのか」とまでは考えず、これが一応の説明になっていると考えたのでしょうか。
 「目が横についている」という意味は眼が横に二つ並んでいると言う意味なのか、一つ一つの目に付いて言っているのか不明です。
 ふたつ並んでいるということだと解釈した場合は、それなら片目の場合はどうかという疑問がわくでしょう。
 そこで片目を閉じて見ると、筍は両目で見たときよりも全体が小さく見えるのですが、縦横の比は横が広がったように感じます。
 そうすると眼が二つ並んでいるために、横方向は縦方向に比べ短く感じるのだと思われます。

 ここで図の筍を見る場合、注意を横に向けて見てください。
 たとえば左右についている赤い丸印に注意を向けながら筍を見ると、筍がずんぐりして見え、枠の長方形の横幅が広がって見えると思います。
 つぎに注意を縦方向に向け、上下の赤丸に注意を向けて見ると筍は長く見え、枠の長方形の高さが広がって見えます。
 これは両眼でなく片目で見た場合も同様で、要するに注意が上下に向けられるか、左右に向けられるかで見え方が変わるのです。

 注意が縦方向に向けられるときは縦方向に視野が拡大されるだけでなく、大きさも拡大され、横方向に向けられるときは横方向が拡大されるのです。
両眼視のとき縦方向が少し大きく見えるのは、横方向は眼が二つ横に並んでいるので、意識しなくても視野が広いため、無意識のうちに縦方向に注意を向けるためだと考えられるのです。
 
 
 


人間の自己家畜化

2006-06-12 22:19:37 | 注意と視野
 小原秀雄「人類は絶滅を選択するのか」によれば、人間は形態上家畜に非常に近い変化をしているそうです。
 腹や背中の体毛が薄くなり、頭に毛が集中しており、人間に近いゴリラやチンパンジーの顔はほかのサル類より顔がむき出しになり、表情を表しやすくなっています。
 人間はゴリラやチンパンジーよりも体毛が薄く頭の毛が長くなっていますが、頭の毛が長くなっている現象は家畜化した馬にも見られるもので、人間の自己家畜化の表れではないかといいます。
 人間の自己家畜化というのは人為的なシステムの中で生活をするために、家畜と同じようにホルモンの出方が野生のときと違ってきて、形質の変化するもので、類人猿を家畜にすれば人間のようになると予想されています。
 
 上の図はこの本に載っているもので、上が野生の馬、下が家畜化した馬です。
 野生の馬はたてがみがほとんど短く、毛は短いそうです。
 家畜の馬はたて髪が非常に長く、前髪が出たりするそうで、また競走馬は頭の大きさは変わらないが四肢ははるかに長いということです。
 こうして見ると、確かに馬のたてがみは長くなっているので、家畜化すると髪が長くなるのかなと納得してしまいそうです。
 しかしなぜ馬の例だけなのかと考えると、分からなくなります。
 牛はなぜそうならないのかとか、人間でも黒人の中には髪の毛が長く伸びない種族もいるようですから、その場合は野生に近いとでもいうのかななどと考えてしまいます。
 
 馬のたてがみの例は家畜化に伴う形態の変化を見事に表しているので、サルから人間への変化に対応させてみたくなるのでしょうが、一般的な原理なのかどうかは分かりません。
 強烈に注意を引くような例を示されると、ついそれが一般的に当てはまるような気になるのですが、本当にそうなのかどうかは、視野を広げて見直す必要があります。
 馬の形質変化は家畜化によるものかもしれませんが、家畜化でなぜそしてどのような形質の変化が起こされるのか、そのメカニズムは明らかにされていません。
 殊更に異論を唱えるのがよいとは思いませんが、例が挙げられた場合派、それとは違った可能性を検討してみる必要はあります。
 歳をとれば、若年者に比べ経験がある分偏った意見に引きずられなさそうですが、高齢者は視野狭窄になりがちなので、他人の意見に引き込まれやすいということに注意する必要があります。

フェイスマークの多義性

2006-06-11 23:05:00 | 注意と視野

 携帯やパソコンのメールに使われている顔文字は、誰が見ても同じ意味に受け取っていると思っていたらそうでもないようです。
 顔文字はサルが「キャー」とか「ギャー」とかいっているのと同じで、ストレートに意味を伝えるので文字の役割を果たしていないとか言われたりしてました。
 顔文字を使うのはサルと同じで、文字を使えなくてストレートに感情を表現しているということらしいのです。
 そういわれると、なんとなく変だなとは思っても、書き手の感情がそのまま読み手に伝わっているかどうかということは考えても見ませんでした。

 藤川宏美「フェイスマークの感情伝達における研究」によれば、実際にアンケートを取って調べてみると、顔文字はそれほど共通理解がされていないようです。
 上の図はこの調査結果からのものですが、ごく一般的な感情表現でも「怒っている」の96.7%をのぞけば多くて60%程度が共通理解されている程度です。
 「驚き」と「ショック」は似ているところもありますがニュアンスが違います。
 驚きはプラスでもマイナスでもいいのですが、ショックにプラスイメージはありません。
 「泣いている」と「悲しい」は近くても同じではありません。
 
 右側の欄の「しらけている」と「考えている」、「落込んでいる」という三つの受け取り方はそれぞれ意味が明らかに違うのですが、顔文字のほうをあらためて見ると、それぞれが「なるほど」と思わせる感じがするから不思議です。
 次の「喜び」と「眠い」、「眠い」と「しらけている」もお互いにまったく違う意味なのに顔文字のほうを見ると、どれもそれなりに説得力があるのです。
 つまり、一義的でなく多義的な記号なのです。

 これは顔文字がサルの叫びとは違って、文脈の中でことなった意味を持ち、受け手の側の解釈行為があって生きてくるということを示しています。
 こんなことはサルがするはずもなく、幼稚な感じのする表現であるにしても、実際は人間にしかできない表現方法なのです。
 サルの叫びのようなものだというような説を提示されると、その説が正しいと思わなくても、顔文字を誰でも同じ受け取り方をするという前提条件を気がつかないうちに認めてしまっています。
 一つの意見に注意を向けたとき、いつの間にか視野がせばめられて、説明の前提を気がつかないうちに受け入れてしまっているのです。
 
 顔文字(フェイスマーク)は表情を表す線画と違って既成の記号を組み合わせて作るため、どうしても写実性は犠牲にされ、暗示的な表現にならざるを得ません。
 一種の謎がけのようなものとなって、アナログ的な解釈を要求するものです。
 感情を直接的に表現するものではなく、反対に間接的に解釈を要求するもののようです。