真実と幻想と創価学会

創価学会について色々書いています。ほぼ毎週日曜更新。

お盆休み最終日

2017-08-20 22:34:21 | 創価学会問題

もうお休みが終わって仕事に行っているという方も多いかもしれませんが、私は有給を使って本日までお盆休みでした。

明日から仕事。始まるずっと前から分かっていたことですが、あっという間でした。

休みの間にうちのにゃんこ4兄弟(血は繋がっていない)の次男・ヨコヅナ君(仮称)と三男・シロにゃん(仮称)のワクチン接種に行ってきました。この2匹、我が家の最重量級でしてね・・・。なんと7.3キロと7.4キロ。

日本猫のオスの平均が大体4キロ後半から5キロ前半といったところですかね。床に横たわって伸びている姿は猫ではなく何か別の生き物かのように巨大ですw

というのもですね、4男・マダラ君(仮称)が慢性腎不全だという話は以前からさせてもらっていましたが、嘔吐防止のために少量ずつ数回に分けてご飯をあげるようになったんですね。その効果かマダラ君は4キロジャストから4.3キロまで体重が戻りました。

しかしマダラ君だけご飯をあげるわけにもいかず、自分の好きなときにしか食べない長男・メタボン(仮称)以外のヨコヅナとシロにゃんにも少量ずつあげていたら、同じく少しだけ増量してしまったということなのです。

「食べさせない」ことはできても「食べさせる」ことはできないわけで、多少メタボになっても食べてくれているうちはいいかと、ちょっと言い訳と諦めが混在していますw

で、お盆休みには友達とランチ&カラオケに行ってきたのですが、この友達というのが前に記事に何度か登場した親戚に学会員を持つ友達なのですけどね。

件の学会員さんは私の友達から見て旦那さん側の親戚になるんですが、40代の女性です。

結婚していたのですが活動に明け暮れ家をゴミ屋敷にして旦那さんが出て行き離婚、親類の助けでようやくゴミ屋敷から汚部屋程度になったものの、やはり非常識な振る舞いで親類を呆れさせているようです。

少し前にその親類学会員さんの実の父親が亡くなったのですが、遺産やらの話でご兄弟とやはりもめたようで・・・。友達家族はその亡くなった方の1周忌が終わればもう縁を切るとのこと。話を聞くと、親類学会員さん自分がそこまで見放されているとは思っていなかったようで、そう告げられた時ポカーンとしていたそうです。

というような話を友達としていて、その親類学会員さんの性格というか考え方が私の母親と酷似していて「やっぱりなぁ」と納得すると共に、そのように同じ人格を形成してしまう宗教(もどき)に恐ろしさを感じていた私と友達でした。

こういう風に皆同じような考えや性格になっていくというのはカルト宗教の特徴です。伝統宗教ではこのような傾向はみられないとのこと。

話の中で、もし私の母親やその親類学会員さんが学会員でなかったらどういう性格になっていただろう?という話題になり、私の母親はちょっと想像がつかなかったのですが、友達の親類の方は家族に依存していただろうとのこと。結局、何かに自分の思考を明け渡さなければ生きていけないのかな、と思ったりしました。

そんな話題を考えながらちょっと興味を引かれたブログをご紹介。

ぐうぐるさんの「創価学会のマインドコントロール」というブログです。

もうお別れした彼女さんが学会員であり、その彼女とのやり取りやご自分が実践された仏式瞑想の理論と学会のマインドコントロールの比較などが記されています。

私自身が瞑想にあまり興味がなかったのでこういった視点から考えてはこなかったのですが、仏式瞑想(お釈迦様が悟りをひらいたメソッド)と創価学会の題目をあげて祈るという行為は全くの逆なんだそう。

自分の心を客観視できなくし、自分の心を押さえつけるのが創価学会のやり方なのだと。それは分かっていることでしたが、お釈迦様の悟りの道と逆ってねー。さすが創価としか言いようがない。

こちらのブログを拝見してふと目に留まったのが、その仏式瞑想で自分の感情を客観視するという記述です。これは祥蘭さんが今のブログ「わだかまらない生き方」で書かれていることと全く同じことでした。祥蘭さんのブログでは瞑想のことは詳細にはでてきませんが、自分が怒っているとき「ああ、自分は怒っているんだな」と客観的に考えると書かれていたので、その辺りの記述がまさに重なる部分かと思いました。祥蘭さんのブログでは「自分=エゴ」ということですね。

なんだかやっぱりそうなんだなー、と思いました。

ではでは、今週はこの辺で。まだまだ暑い日が続きますので、って関東では寒いくらいだそうで、気温の変化が一番体調を崩しやすいですからね、皆さまお気をつけて元気に夏を乗り切りましょう。


8 コメント

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創価学会のマインドコントロール (ポピー)
2017-08-21 13:48:38
こんにちは。
2回目のコメントになります。
4兄弟の猫ちゃん達、暑さに負けず元気でなによりですね。
私も大の動物好きですが、子供が猫アレルギー体質なので今は犬と侵食を共にしています。(^-^)

「創価学会のマインドコントロール」私も一気に読みましたが凄い衝撃と感銘を受け、さらに考えさせられました。
ただ、覚醒間もない元学会員の方々には受け入れ難い内容かも知れないとも思いました。

確かに「学会員の活動家は承認欲求が強い」と思います。
私の活動家の姉もいわゆるイイ子でした。
「人生の悲劇はイイ子から始まる」という言葉通り。
親が信用できないからイイ子でいないと愛されないと感じて育ったのでしょう。

学会員は覚醒してもしばらくはカルトに騙されていた現実を受け止めることに精一杯で、その後は創価に対するモーレツ怒りが湧いてきてその怒りを何処へ向ければ良いのかでさらに時間を費やすようですね。

祥蘭さんのブログはご自身の育った家庭を思い出しながら一方で客観視しながらその時の行動と気持ちを綴っておられます。
まさしくご自身と向き合う作業をされたのだと思います。

「創価学会を卒業します」のブログもご自身の心の整理の為に、もう2
度と創価に貴重な時間をのっとられない為につらい体験をしっかり綴られ、これからは前だけを向いて生きて行こうとするひた向きな姿に胸が締め付けられる思いでした。

瞑想については私もまったく知らなかったんですが、同じ時期にTVで瞑想の効果と脳の関係について報道されていました。
また、武田鉄矢のラジオ番組でも「脳は疲れない」という脳科学者の本を元に解説していました。

どちらにも共通している事は睡眠や瞑想によって脳の海馬という場所を休ませる事により、ちらかった情報や思考が整理されるらしいです。
整理された海馬はリフレッシュされ新しい情報を取り入れやすくなり柔軟な思考ができる。
そんなふうに、理解しました。

なので海馬が委縮すると自身の考え方にいつまでもこだわり、同じ事を言い続けるそうです。
そうは言っても自分の感情を客観視するのはけっこう大変なんですが、意識して取り入れていきたいなぁと改めて思いました。
時間ですよ (河童)
2017-08-26 14:10:13
盆に食べるは「盆カレー」。暮れに食べるは「ク暮れカレー」。
クロさんこんにちは。加齢なる暴走族、河童です。

非活も板についたので、これまで封印していた幾つかの趣味に、まとまった時間とお金を投じていました。
でもまだまだしたいことがありすぎて……気がついたら盆も過ぎ、筆不精です。

筆と言えば、私用でのワープロは長い間、一太郎なんですよ。ATOKが好きなのもあって。
でも以前、学会提供の用語辞書をインストールしたので、時々空気を読まずに学会用語やブッポー用語を乱発するんです。これ非活の身には結構ストレスです。
でも学会員用のワープロってあると活動者が増えるかもですねw
辞書「広宣苑」搭載で「いけだ」って入れると「池田大作先生」って出る。次候補は「お元気です」。
「ほとけ」なら「創価学会仏」。「ごほんぞん」なら「皆同じ」。「ざいむ」だと「三桁」なんてね。
標準搭載の「代作フォント」でセンセイの斜め文字も書けるからメッセージが作れます。
このワープロは名付けて「一太作」。

失礼しました。
さて、ご紹介のあったぐうぐるさんの「創価学会のマインドコントロール」や、祥蘭さんの「わだかまらない生き方」など、心の本質に迫るブログは大好きですね。

中でも祥蘭さんのブログは以前から時々拝見していましたが、秀逸ですね。
当初の、学会問題が家族を分断していく問題からは解き放たれ、近頃は別の分野に移行しつつあるのでしょうか、取り残されたワタシは少し寂しいような、でも嬉しいような。

この中で苫米地英人氏の「時間は未来から過去へ流れる」というのがありましたね。氏の本は何冊か持ってます。これね、凄い視点です。我々、特に技術系の人間は過渡現象をグラフで捉える時に、習慣的に時間軸を横にとって右に進めますよね。x軸に→tとか書いて。右に行くほど未来です。時計の文字盤も針が右に回って未来を追いかけます。だから過去がそのまま未来に進行しているような感覚になってます。
よく考えてみると、我々は未来から時間のシャワーを浴びながら下水に過去を流す、と言う方が近いのかも知れません。濡れた体、未来と過去の狭い境界こそが今現在です。
そこでワタシはこの感覚を分かりやすくする時計を発明しました。名付けて「ほっ時計」。
針は一本で固定化され、文字盤の方が左に回るんです。針の幅が今現在。未来がどんどん近づいては針を越えて過去に流れて行く。過ぎ去った過去は戻らない。大した力なんかない。
「ほっ時計」をしていれば、過去世の宿業とかいう脅しに捉われることが無くなります。人生は、過去のほんの一部の残渣的経験と来る未来の一部が現在で出会った相互作用の積み重ねだと悟れるはずです。何が起こるかわからない。だったらまんま受け入れて出来る限り楽しんでいこう、って悟れます。

なんでこんな話なのか。ワタシもスピ系は嫌いではないですが、まるっぽはハマりません。ただ、自分の体験を伴う幾つかの分野については仮説を立てて検証したいという立場です。時間感覚については不思議なことを体験しているので思い出しちゃいました。
人は生命のピンチに陥ると、その間の時間の進み方が遅くなるんですけど、聞いたことないですか?
ワタシあるんです。これを極限値で解釈すると、人(当事者本人の感覚として)は永遠に死なない可能性が出てきます。筒井康隆のSF「お助け」にもそんな話があったかな。

カルトから脱出したと思ったら、今度はオカルトっぽいですねーw
顔だけぢゃあないんですよーだ。

夏休みってあっと言う間に終わりますよね (トニー)
2017-08-26 17:40:46
猫の餌の問題って難しいですよね。一緒に暮らすツレが、何度言っても餌を与えすぎて困っているんです。影でこっそり、カツオやニボシのオヤツを与えてるし。「お前の好きな大太は知っての通りオス猫だ。ニボシは特にオス猫の泌尿系を傷める。腎臓によくないんだ。やめてくれ」と口を酸っぱくしてるんですがダメなんです。やれ「食いつきがいい」だの「食べてる姿が可愛い」だのとやめてくれないのですよ。
何かやめさせるのに良い方法はありませんかね?

今年の夏は、愛車のロードスターにツレを乗せ、山奥深い峠道を走ってきました。壇ノ浦の戦に破れて落ちのびた平家の落人伝説が残る、栃木県は湯西川温泉の由緒正しき温泉旅館へ一泊するためです。
生まれて初めて、鹿肉の刺身と山椒魚の唐揚げを食べましたよ。鹿刺しは、馬刺しよりもさらにサッパリとした味わいでした。山椒魚は鶏肉にとてもよく似ていました。元自衛隊の友人や知人たちは皆一様に、ヘビやカエルは鶏肉みたいだったと口にしていましたが、まさにそんな感じなんでしょうか。
その身そのままの姿で揚げられた山椒魚。尻尾を持って真正面から見ると、それはそれはグロ可愛いお姿をしていたので、思わず友人に写メを送ってしまいました(笑)。
ホテルの窓を開けると太鼓の音がするので散策してみると、近くの神社でお祭りをやっていました。お囃子に似た笛の音色に合わせ、獅子舞のような面を被った人たちが太鼓を打ち鳴らし踊っていたのです。聞けば先祖の霊を慰めるための伝統舞踊らしく、どんなジャンルの音楽でも聴けちゃうタイプの僕は強い興味を持って耳を傾けていたのですが、ツレにはこういった音楽は良くも悪くも古すぎるようにしか感じられないらしく、少々帰りたそうな顔をしていました。神社詣なんて学会員の頃には考えられない行動ですよね。その神秘的で荘厳な感じが今では大好きで、あちこち二人で出かけては詣でることが今では当たり前のようになっています。
他にもひまわり祭り。昭和天皇も食べに来たという名門の蕎麦屋。地元の花火大会(もちろん諏訪ではありません、念のため)。おかげさまで今年の夏も充実した日々を過ごしました。

ところでこの夏、芥川賞候補作に選ばれた「星の子」という小説を読んだんですよ。水を崇拝するカルト教団にハマってしまった両親の元で生活する少女の視点から描かれたひじょうに味わい深い物語でした。
親がカルトを信じ込んでいるせいで、少女は傷ついています。しかし悲しい哉、そのことを少女自身はあまり強く自覚出来ていないんだ、ということが、読者目線からだとすごく良く分かる内容に仕上がっているんですよ。失礼ながらクロさんのようなケースの場合、傷ついていることをクロさん自身が自覚していることが、学会に疑問を持つきっかけになっていますよね。この少女、悪く言うならやや幼稚な面があるため、年頃の女の子なら親には決して打ち明けないようなことを平気で話すような変わった一面があるんです。それがゆえに、親子の仲はひじょうに良好。何より、病弱で肌が弱かった幼かった頃の自分を助けるため、お水をもらってしまったことがきっかけでカルトにハマってしまった両親を気遣う優しい一面もあるんです。カルトのことを抜きにするなら、両親たちもとてもよい人柄をしていて、娘のことを、それはそれは大事にしているんです。がしかし、大事にしているからこそ実は傷つけ合っているという真実を、この親子は客観的出来ていません。
目の前にはそのカルトが誤っているというヒントが、いくつもいくつも転がり落ちているというのに・・・。

創価学会を信じていた者の目から見ると、カルト教団の描写がやや甘いように感じるのが弱点といえば弱点でしょう。何よりも、引越しをするたび、次第に住む場所がみすぼらしくなっているのですが、理由は他でもなくカルトのせいなのだという説明だけがなぜかすっぽりと欠けているのです。
①説明する必要はないと意図して省略したのか。だとしたらそれはカルトの本質を正しく理解していない人たちに対してあまりにも乱暴な省略ではないか?
②あるいは本当にコロリと忘れてしまったのか。もしそうなら、それは物書きとしてあまりにもいかがなミスではないか?
・・・そう思わずにはいられないのです。

いずれ少女はカルトの真実に気づき、親を棄てる日がくるのでしょうか?クロさんはどう思うでしょう?カルトの問題を考える上で、なかなか興味深い内容の一冊です。良かったらぜひ読んでみてください。
ポピーさんへ (クロ)
2017-08-27 22:44:22
こんばんは。コメントありがとうございます。
ワンちゃんも可愛いですよね!一緒にお昼を食べている会社の人がワンちゃんを飼っているのですが、猫との違いにいつも笑い合っています。どう足掻いても可愛いんですけどね。

「創価学会のマインドコントロール」、ブログランキングから見つけたのですが、私も一気に読みました。
外部の方が学会についてブログを書いているのは少数派であり、その中でも少し視点が違うのでとても興味深く拝見しました。
色々なブログで元活動家さん(特に2世以降の方)のお話を見るたび、親が喜ぶから、認めてもらいたいから、親の関心を引きたいから、そういった理由から活動を続けていたという人はとても多いです。
幼少期に無条件の愛情を感じなかった人というのは、アイデンティティを築きにくいといわれます。
カルト宗教がMCによってアイデンティティを破壊し、その宗教や教祖がアイデンティティの変わりになるように仕向けるように、元々アイデンティティが脆弱な人はよりのめりこんでしまうのだと思います。
覚醒して日常生活の中でアイデンティティをしっかり自覚することができれば、怒りをはじめとした感情の波も収まってくるのでしょうね。

瞑想やスピリチュアル系の話というと拒否感を持つ人も多いと思うのですが、割と書かれていることはごく当たり前のことであり瞑想の理論などは実に科学的ですよね。
瞑想というとイメージ的に禅の修行(「喝!」ってやつ)を思い浮かべてしまいますが、心を静めて「考えない」ことによりポピーさんが書かれた通り頭の中を整理するということらしいですね。
祥蘭さんのブログで書かれていることを拝見し、そしてこのぐうぐるさんのブログを拝見して尚のこと、自分の心を客観視すること、自分の本当の望みは何なのかということを理解する作業は、実践していきたいと思っています。
河童さんへ (クロ)
2017-08-27 23:37:56
お久しぶりです、河童さん。コメントありがとうございます。

カレーは自分で作るようになってから「海老カレー」オンリーのクロです。殻でだしをとる凄く美味しいんですよ。
ご趣味に没頭されているとのこと、充実したご様子で何よりです。

学会用語をインストール!そんなものあるんですかw
私は大体このブログは「メモ」で書いてそれをコピペしているんですが、確かに学会用語は一つ一つ変換していかないといけないので手間に感じる時があります。
しかし単語登録するのがちょっと抵抗あってw
「一太作」がもし商品化されたら、河童さんアイデア盗用されたことになりますよ。

祥蘭さんのブログは途中から方向性が変わって「おっ?」と思いましたが、よくよく読んでみると祥蘭さんご自身が書いていらっしゃることに違いはないことが分かります。
スピ系と思いきや実に理論的で、それ故に納得させられることも多いですね。
時間の流れの話は、とある少女マンガ作家の方が単行本の端(雑誌掲載時の広告スペース)に同じようなことを書かれていましてね。
時というものは「流れ」というからには、川にたとえると上流(未来)から下流(過去)に向かって流れていくことになる。
すると私たちは源流である「時間の生まれる場所(何もない場所)」に向かって進んでいるのではないか、と書かれていました。そんな話を思い出しました。
あるいは「人類5分前説」のように、過去も「ある」と思っているだけで本当にあったのかどうか、実のところ分からないものなんですよねー。
時間の概念というものは捉え方や視点によって様々な考え方があり、とても面白いものです。

危機的状況で時間の感覚が遅くなるというやつは、私も経験しました。
自転車走行中に路上駐車していた車のドアがいきなり開いてぶつかったことがあるのですが、そのドアが開いて「避けきれない!」と悟った瞬間から実際にぶつかるまでのコンマ数秒ですね。
まあ信じられないくらいたくさんのことを考えましたよ。主にダメージの少ない対処法ですが。そのお陰か、幸い打撲ですみましたがね。
さて、生命のピンチに時間の感覚で永遠に生きるというのはある意味最も残酷な拷問のようですが、「ブリーチ」というマンガにもそんな負け方をするキャラがいましてね。
当人は永遠の最中ですが周りは普通なので、周りから見る分にはまさに拷問ですね。

河童さんはやはり色々な問題に深く切り込んできますね。
またお時間があれば、気軽にコメントして下さいね。
トニーさんへ (クロ)
2017-08-27 23:59:08
ニャンコのご飯は、どうしても可愛がる行為としてあげてしまう人がいますよね。
うちの父親もそのタイプで、実家で飼っているときのメタボンは本当にメタボでした。
病気のリスクはトニーさんが話すよりはネットで猫の病気に関するサイトなどを見せて、病気になるとどうなるかを理解してもらうのが効果的ではないでしょうか。
ニボシも絶対禁止にするのではなく、週に一回だけなど影響の出ない範囲で決めた量だけあげるとか。
お二人の関係性が分からないのでどこまでキツく言えるかもありますけど、私ならその上で「病気になってもし命に関わることになったら責任取れんねんやろうな?アァ?」とドスの聞いた声で脅しますがねw
ダメダメ言うより要はご本人が「あげると良くない」と思ってくれるように仕向ける・・・ことですかね。参考になっていないかもしれませんが、考え付くのはこんなところです。

温泉旅行とはまた、良い夏をお過ごしだったみたいですね。
たまたまお祭りに遭遇とか、持ってますね~。
学会員さんはそういった神社でのお祭りにも物思うことがあるのだとすれば、実にもったいないことです。
今はあまり関係ないという指導だそうですが、やはり敬遠してしまうのでしょうかね。

「星の子」という作品、ネットでチラッと調べてみました。確かに興味深いテーマですね。
自分が傷ついていることに無自覚であるというのは、私の考えで言えば「親を非常に信頼している」故であると思います。
信頼、信用しているので自分自身という存在と親の存在を一部で重ねている、一体視している人は気付きにくいと思います。
子供はごく普通に育てば幼い頃は誰しもそのような感覚だと思います。それが成長するにつれ、自分自身を確立していく、自我の芽生えとでもいいましょうか。
親が子離れできていないときも、親側に同様の現象は起きていると思いますがね。
親を信頼するというのは当たり前に素晴らしいことですが、親も子も「別個の人格」であるといずれ気づかなくてはなりません。
その上で信頼しあうのが、本来の人間関係のあり方なのだと思います。
こちらの小説でどのような描き方をされていたのかは分かりませんが、客観視というものが欠けているならばそれはそうなって然るべきことなのかと思います。
カルト教団の描写については読んでいないのでなんともいえませんが、カルト批判がテーマではないのならば「行間を読ませる」つもりで省略した可能性もあるかと。単に説明不足だったのかもしれませんが。
レビューを見る限りすんなりと読める作品のようなので、また読んでみたいと思います。ご紹介ありがとうございました。
続きです (河童)
2017-08-28 12:57:29
センセイのスピーチが代作であることは、バリ活時代の中頃には気付いてましたよ。
「一流の、世界でも有名な○△□×氏は、こう述べています……」
センセイ、○△□×氏のところをたどたどしくつっかえながら紹介してんぢゃねーよ。今初めて読んだだろ?
って感じで。

続きです。クロさんこんにちは。
それなのに居続けたワタシは何を求めていたのか。「自分対ご本尊」に縛られていたのか。組織の性善説を過大評価していたのか。いずれにしても当時、難解な教義が判断を遅らせたことは事実です。今の教義ならついて行ける方がどうかしてる。そんな教義を尤もらしく振りかざす組織の本質が、80年を経て露わになった、ってとこですね。

先の学会用語辞書ですが、古くからHPの「会員サポートツール 学会用語変換ツール」で公開されてます。
会則変更が反映されてなかったり、外部目線で見るとなんだか笑える用語の数々……
ex.
おたるもんどう 小樽問答
ごかいひ 御開扉
しんぶんちょう 新聞長
だいしどうしゃ 大指導者
みらいっこ 未来っ子 etc.

ところで時間感覚の話ですが、ワタシもクロさんの状況にそっくりです。
昔、箱根の峠をバイクで激走してた時、左コーナーにオーバースピードで突っ込んでしまい、センターライン付近まで膨らみました。見通しが悪い中、突然目の前に対向車が現れました。もうパニックです。
コーナーリング中の急制動とライン修正……試みようにも簡単に出来るわけないです。しかしここからコマ送りと言う未体験ゾーンに入りました。
バンクしたまま急制動をする。リアが滑り出した。まずい、ブレーキを緩める。ラインが膨らんでいく。
これはぶつかるな、どこかな。フロントフェンダーかな。ここに当ると体はフロントガラス直撃で痛そう。
更に近づいた。フロントドアかも知れない。これなら屋根の上を飛び越えて空中一回転で着地できるかも。向こう側は草原だし。コマが進む。リアドアかも知れない。とにかく当たったら上にジャンプだ。更にコマは進む。リアフェンダーっぽいぞ。ウルトラマンダイブかな、大分マシ。
お互いが急制動しながら交錯し、幸いにもぶつからずに止まったところで振り返ると相手までの距離約10m。ここで現実の世界に戻りました。速度はお互いに40~50Km/hだったと思うのですが、発見から停止までは2秒前後。交錯の瞬間はコンマ数秒。余りにも焦ったのと恥ずかしさから直ぐにその場を去りましたが、相手の車種、色、古さ、乗員の人数、運転手の表情まですべて記憶しています。
で、後で考えると、そんな短い間の状況が冷静に見えていたのが不思議でたまらなかったわけです。
あのコマ送りは何だったのか、時間が10倍以上延びた気がしました。或いは思考のクロックが増速するのでしょうか。でも恐らく身体能力は変わらないはず。マトリクスみたいには、弾は見えてものけぞれないでしょう。
肉体的危機ではなく精神的危機で発動したのに、日常生活や仕事でたまに精神的危機を感じても発動したことがないのは、余程緩く暮らしているのか危機感が薄い、あるいは事後に気付くノロマ、ってことですかねw
あの感覚で毎日暮らせたらかなり優秀な人でしょうし、現実にはいるのかも知れません。
でもかなり疲れそうですね。長生きは出来そうもない。
何方か、この現象を解明して頂きたいです。

この他、不思議体験はいくつかあるのですが、意識的に発動できないので科学的検証が出来ないんです。
霊感は全くないのですが、前にもお話ししましたが、納骨堂とは知らずに入ろうとし、入り口で強い寒気をもよおし、何故か恐怖心が湧きつつも恐る恐る踏み込んだら数々の骨壺を発見し遺影に睨まれ「ギャー」となりました。事前に感じたものは何だったのか。
一般人のワタシですら経験するので、皆さんも多かれ少なかれ何かあるとは思いますが。尤も、人間の5感6感の検出レンジが人よりも広く、感度も優れた特別な方はいそうな気がします。
いくら人間が賢くなったとは言っても、真実の1%も分かってないのかも知れませんね。そう思えれば謙虚にもなり、平和・文化・教育が進むんですけどね。
おい、聞いとるか! 宇宙の法則を知ったかぶりしてる人々よ。
河童さんへ (クロ)
2017-09-03 23:55:44
こんばんは。
センセイのスピーチ、「一流の、世界でも有名な」って紹介の文言は非常にカルトっぽいですね。いや、その紹介されている著名人を貶しているわけではなくて、いかにも権威付けに利用していますって感じがして胡散臭い。
本当に有名な方ならばそのような紹介文は必要なく、このような言葉を使うというのは必要以上にその後に続く言葉を強調するためだけのものと見受けられます。
それにしてもバリ活時代にでさえ違和感を覚えるというのは、相当のものだったんですねw

「自分対ご本尊」。これは私の母親も言っていたことです。
如何に組織や池田氏に世間的な批判があろうと、「これ(信仰)は私とご本尊様の問題やねん」と、学会の批判に耳を貸さない状態でした。
なんでもご本尊は自分の命の鏡?なんだとか。だからご本尊に向けて勤行することは、自分の命を輝かせること、勤行はご本尊にとってのご飯だと言っていましたね。
その割には母親の命は輝いていないし、なにより性根が残念なことになっていて仕方ないのは信心が足らないからですかね。
信心が足りるように祈ったらどうなるんでしょう?
叶わない願いはないという理屈からいうと、それでオールOKでは?

バイクの事故は怖いですね。自転車もですが体がむき出しですからね。でもバイクは速度が違う。
私の場合、まず最初にどちらにしろぶつかるけれど急ブレーキをかけるかギリギリまで回避するかの判断が明暗を分けていましたね。
頭の中でシュミレーションするんですよ。ブレーキの場合と回避の場合。
で、ブレーキはこのスピードだと体が飛び出して危険と判断し、横倒しになるまで回避に徹したんですね。
その最中にもこのままだと道路に投げ出される=後続車に轢かれたら転倒以上の事態になる、と考え。
次に転倒時のダメージを減らすため、手や肘をついたりしたら骨折するから点ではなく面で受けなければと、肩を丸めて体の側面で道路に投げ出される体勢を作ってドアにぶつかりましたね。
回避のお陰で正面衝突ではなくペダルがドアに引っかかるというぶつかり方でしたので、私自身は車とは接触せずにすみました。
前輪がドアの横をすり抜けたとき「やった!」と思いましたね。これも数ミリの差です。見えてた。
道路に投げ出された次の瞬間には後続車の確認で上半身を起こしてバッと後ろを向いたのですが、まさに不幸中の幸いで直前の信号が赤で車が止まっていたんですよね。
いやまさに、あの瞬間に冷や汗がドバッと出ました。
怪我はふくらはぎの外側を自転車のどこかに強打した打撲だけでした。冬場で長袖を着ていたので擦り傷などもほとんどなく。
今思い返しても、とても1秒にも満たない時間で考えた内容ではないですね。
私も河童さんと似たような感覚で、車のドアが開いた瞬間のそのドアの内側がやけに鮮明に印象に残っています。ドアの開いた音も。
冷静に考えられるというのは、ある意味人間の生存本能なのかなと思ったりします。生き残るために必死、という感じで。
なので生命の危機に瀕するような状況でないと発動しない状態なのでしょうね。意図的にやりたいですか?w

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