マインド・コントロールとは何か
価格:¥ 1,427(税込)
発売日:1995-08
第1章 破壊的カルトの活動とマインド・コントロールより
破壊的カルトの反社会性
(3) 組織のトップとメンバーとの間の支配・隷属関係
破壊的カルトのメンバーは、組織内での役割や仕事のみならず、衣・食・住にいたるまでの生活のあらゆる面で組織のトップや上位メンバーの命令を受け、それに服従させられており、ほかの行動の選択肢がない。つまり、自由の完全剥奪である。なかには、結婚や性的行為、生死の権利にいたるまで、その自由が奪われている集団も少なくない。
そして、集団が獲得するすべての富は、組織のトップやごく一部の幹部が独占し、そのほかの多くのメンバーは、自らの労働によって得られた組織の収益の再分配をほとんど受けることなく、奴隷のように惜しみない労働力を提供している。場合によると、彼らは命までも捧げて奉仕させられてしまう可能性があるのは、歴史が証明している。
(1)と(2)で紹介した特徴もそうですが、外から見れば、あるいは少しでも客観的な視点で組織を見ることができれば、これらのことは容易に気づくことです。
むしろ、バレバレなんです。
しかしひとたび心酔してしまうと物事が片側からしか見られなくなってしまうんですね。
組織は心酔させようと最初はあの手この手で近づいてきます。
最近ネットニュースでもありましたが、近頃のカルト宗教はインターネットのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を勧誘の窓口に利用しているそうで。
ミクシィなどのSNSは、このブログをご覧になっているような方なら少なからず利用されているでしょうからお分かりでしょうが、あそこのプロフィールなどには個人情報が満載ですよね。
どんな趣味で、学生なのか、会社員なのか、性別は家族構成は…。
それらに合わせて、同じ趣味や環境を装って近づいてくるそうです。勿論最初から宗教の臭いなど微塵も感じさせません。
そこで仲良くなって、お互いの悩みなどを打ち明けたりします。そして親しくなると、例えば「同じ大学の学生だよ!今度会おうよ!」などとチャットやメッセージを交わしてリアルで交流を持つに至ると。
そうするとカルト側はもう、獲物の趣味もある程度の家庭環境も、そして性格や悩みまで把握済みなわけですから、今までの勧誘よりずっとやりやすいわけですね。
主に学生(大学生)がターゲットのようです。
勧誘の仕方も時代と共に変化しているのですね。
記事とはあんまり関係のない話になってしまいましたが、どんなに便利なツールも使う人間によっては良い結果を生むものではないということなんでしょうね。
母の叔父(創価学会員)が田舎で農業を営んでいて、地域の人達から、町会議員に出るように薦められ、本人もその気になったんです。そして、出るなら、公明党として立候補したいと思い、その話を創価学会に持っていったら、理由なく、駄目だと言われ、仕方がないので、地域の方の応援もあるので、無所属として立候補する決意をしていたら、創価学会幹部から、選挙に出ないように言われたのです。
一生懸命、学会活動をしてきた叔父もこればかりは、納得いかず、幹部と対立したのですが、家族から、創価学会に逆らって、立候補してもいいことはないと宥められ、断念しました。それ以来、叔父さんは、活動をしなくなりました。
政教分離ではないことを物語っているお話でした。
いやぁ またまた出ました~! 今日の聖教に創価小学校入学式に創立者が贈ったメッセージが載ってました。
創価大に引き続きまた3面に池田夫妻のツーショット写真が。
ご自分が撮ったと言う韓国の迎賓館の写真の前で立っている写真。 今回のは上半身のお姿でございます。 韓国のどこぞの大学から頂いたローブを夫婦二人で着用。
どう見ても奥さんの顔は先日の写真と全く同じ。 ローブの下からチラリと見える服やネックレスも同じ。
まあ同じ日に撮影したと言えばそれまでですが、寸分違わぬ表情はムリと言うものでは?
私の感想としては、そのローブの写り方がな~んか立体感がない感じなんですよね~(笑)
そうそう先日の直立不動写真ですが 奥さんの左手は黒いハンドバッグを持ってたんですが 右手は…あれ~? 肩から肘あたりまでの袖は写ってますがその先が写ってない。 右手だけお尻の後ろにでも? それにしても不自然な感じを受けました。
しかし 2年近くも動く池田さんの姿が公開されない中、怒涛のような各種会合へのメッセージやら執筆の数々。 そしてたまに載る取って付けたような写真。
いつまでこんな嘘臭いことを続けるんでしょうね… もはや私の中では笑いのネタでしかありません(^^)
今朝の写真は一週間前の写真にそっくりだな、と。
虫眼鏡でよく見てみると、カネさんの顔は表情、髪のライン、アングル、中の服、ネックレス・・・同じじゃん。
センセイの表情は口周りだけが少し違うかな? でも首肉の弛みと襟の関係は同じだ・・・
これは少なくとも同日撮影だ、それだけアクティビティが落ちているんだ、と確信していました。
先週のカネさんの右手ですが、私はセンセイの背中を倒れないように支えているのだと思ってました。
いずれにしてもこれは今年の写真ではないと勝手に思ってます。
特に今日の写真は子供雑誌付録の紙の着せ替え人形みたいです。
それにしても夫妻の表情は何とかならなかったのかと思うほど酷いものでしたね。
放心状態の夫をムンクの叫び顔で支える妻の図でした。
それそれ、その「紙の着せ替え人形…」って表現 うまいッ! 座布団1枚!(笑)
元気さをアピールするために、時々2ショット写真を載せるんでしょうけど かえって不自然さが見えて笑える(^^)
奥さんはいつもこぼれんばかりの歯を出して笑顔つくってますが「目」が全く笑ってませんね。
大体 何月何日にどこで撮影したかを明かせないのは疑問です。「今月、東京・新宿区内で」ってなんですかね?
本部職員ってあちこちのブログをチェックしてるらしいですよね。
だとしたら次回から載せる写真はあれこれ指摘されないよう、今以上にお直しに力を入れたりして?。。。(笑)
>場合によると、彼らは命までも捧げて奉仕させられてしまう可能性があるのは、歴史が証明している。
>(1)と(2)で紹介した特徴もそうですが、外から見れば、あるいは少しでも客観的な視点で組織を見ることができれば、これらのことは容易に気づくことです。
>むしろ、バレバレなんです。
>しかしひとたび心酔してしまうと物事が片側からしか見られなくなってしまうんですね。
いやあ、まさに創価学会そのものです。
普通に見ればあまりに「奴隷化」されてる実態です。
でも、それすら気がつかなくなってる。。。
マインドコントロールそのものですね。
そして、宗教はマインドコントロールするには実に都合のいい「道具」です。
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この話は中島敦「名人伝」のような弓の求道を、日本の達人に師事して達成したドイツ人へリゲル氏の不思議な実話(1926~1931)です。
日本人にとっても、奥義は、不合理・非論理・神秘に思える。
それを論理的な西洋人が求めたのですから稀有な出来事です。
「あなたは弓を腕の力で引いてはいけない。
心で引くこと」や「あなたがまったく無になる、ということが、ひとりでに起これば、そのとき正しい射方ができるようになる」
非合理と神秘に満ちた修行の体得に4年間を要したのは頷けます。
最後の課題「的を射る」は超難関でした。
「的を狙ってはいけない。
心を深く凝らせば、的と自分が一体となる。
自分自身を射なさい」
この言葉にへリゲル氏は不可能感を抱き、完全に行き詰まる。
阿波師範は「的を狙わずに射中てることなどできる訳がないと思う不信感」を除くために、深夜に実演してみせる。
微かな線香の灯が方向を示すだけで、的は暗がりの中に没し見えない。
師は2本の矢を続けて射た。
へリゲル氏が確認すると第一の矢は的の真ん中を刺し、第二の矢は第一の矢の軸を貫き、第一の矢軸を2つに割っていた。
師範は言う。
「こんな暗さでいったい狙うことができるものか、良く考えてごらんなさい。
的の前では仏陀の前に頭を下げると同じ気持ちになろうではありませんか」
ヘリゲル氏は驚愕したに違いない。
以来、疑うことも問うことも思い煩うこともきっぱりと諦め、精進した。
こうして、苦節5年間の後、「無の射」を体得した。
その完成の域が「不射の射」であることも理解したという。
長い歳月を経て、氏は死の直前、出版予定だった弓道と禅思想に関する自身の膨大な原稿を燃やした。
そして安らかに亡くなったという。師の教えに従って無に抱かれたのでしょう。
この話の紹介者は述べています。
「ほとんどの日本人には、何らかについて名人・達人になる素質があると思います。
技術であれ、スポーツであれ、芸術であれ、何かを極めようとする場合、この実話は貴重な参考情報を提供してくれるのではないでしょうか」
日本には多数の神社仏閣があり、多くの「神」がいます。
それぞれが争うことなく、調和しながら今に至り、あらゆる老若男女を受け入れ・自然体で存在しています。
他国は一宗教で争いが絶えない中、「神々の調和」があることは奇跡の国のようにも思えます。
まさに「和」の国です。
そして日本には言葉は「言霊」という意味もあります。
放つ言葉には、思いの全てが込められてて・それは聞く相手にも伝わると同時に、言霊はそのまま創造する力をも持っている。
私見ですが、本来・日本人は神々と共に生きる純粋で清らかな民族だと思います。
その心根から端を発する理解や諸現象は、合理性や理屈ではとうてい理解し難い境地もあると思います。
その一例がへリゲル氏の実話のように思います。
まさに日本人の「誇り」という言葉では足りないような実話です。
その日本人の純粋な「誇り」があれば、カルトなどにマインドコントロールされ・自分や家族の時間やお金を搾取される愚かな人生になることもなかったように思います。
ある人は結婚式を教会であげて牧師に誓い・お葬式は仏教で・クリスマスはキリストを語り・初詣は近くの仏教神社・・・まるで宗教に節操がない!
いやそうじゃなくて、日本人の心には神聖を宿しているので・こだわらなくていいということです。
全てと協調し合い、全てを包含しゆく心根がすでにあるのです。
今一度、我々日本人は自らの胸中にある「神聖」を、そして「誇り」を思い出すべきだと思います。
ちょっとだけ、追加です^^;。
>「的を狙ってはいけない。
心を深く凝らせば、的と自分が一体となる。
自分自身を射なさい」
見据える的は我が意識が集中した一点。
我が意識と一体化。
まさに自分=世界。
その「悟り」だと思います。
>的の前では仏陀の前に頭を下げると同じ気持ちに・・・
大いなる存在に頭をたれる。
的も世界の一つで、それは自分自身でもある。
自分が自分を見つめて、存在をただ讃え・手を携える・・・そんな胸中のように感じます。
もう優劣等のレベルを大きく超越した世界ですね。
>「無の射」を体得した。
射るとは、通常・その的が必要です。
しかし「射ることは無い」、その必要はない。
的は、すでに我れと一体である。
まさに「不射の射」です。
「射る」ことなく、それはすでに「射てる」わけです。
その真髄たるや、まさに「深夜の実演」が物語っています。
真理・真髄に添えば、当然現実はそう表現される。
それはある時は、まさに奇跡!としか言いようのない現実化でしょう。
その「真理」を日本人は胸中に秘めている。
大げさじゃなく、理屈を超えた日本民族の素晴らしさ・それは我々自身が気がついていないだけで、神々の神秘と共に胸の奥に息づいてる気がします。
素晴らしいことだと思います。
いや、大変に私見で・言葉にするとあまりに拙いのですが、あくまで個人的な気持ちですが、一言添えたくなりコメントさせて戴きました。
その前に、先ずはカルトに影響されてる「眼」を開かねばなりません。
盲目の世界から、少なくとも片目を開けて世界の真実を見なければなりません。
これは「修行」などいらない。
ほんのちょっとした勇気とちょっとした人間的好奇心で、薄目は開いて・片目くらいは開きます。
それくらいはカルトに騙されないためにも、開いてほしいものです。
そのことは、拙い表現ながら・あるブログにコメントさせて戴きました。
二度も失礼いたしました。
素晴らしい御意見だと思います
しかし一神教にしろ、多宗教にしろ問題は有りますよね
それこそ個人的な意見ですが自身に接触が有った宗教に対していろいろな面から内容について精査する事が大事なのではないかと思います
ほとんどの人が幸せに成るとか悩みが解決するなどの目先の利点を追い求めすぎて本質を探ろうとしない所に問題が有るのではないかと
生活上違和感を感じる活動で有るかどうか等を客観的によく考えて最尊なものを選択して欲しいですね
叔父さんの貴重なお話、ありがとうございます。
公明党から立候補できない、というまでは釈然としないまでもまだいいとして、無所属での立候補を阻害する権利がどこにあるのでしょう。
違う公明党候補の障りになるから、ということでしょうが、立候補する権利は日本人が有する選挙権の一つです。
どのような理由があろうと、一宗教団体の都合で信者の選挙権を侵害することなど許されません。
公明党への無条件でほぼ強制的な投票要請とはまた違った、明確な人権侵害です。
仰る通り、政教一致の一端ですね。
それにしても、ミルキーさんの叔父さんのお気持ちもいかばかりか。
信じて尽くしてきたであろう学会から裏切られるようなお気持ちであったことと思います。
幸せのために、功徳・福運のために!そう煽るのは一見信者の(幸せの)ためのようにも見えますが、こうした一人ひとりの信者の権利や気持ちを踏みにじる姿からは一切の暖かさが感じられません。
信仰という言葉が抱く神聖さや崇高さ、穏やかさや包容といったイメージを、片鱗さえも伺わせない実態です。
表看板だけはそれらのイメージを強調しているところが、イタイところです。
いや~、その聖教新聞見てみたい!
ここまでネタされる低クオリティの写真は逆に価値があるんじゃないでしょうかw
聖教新聞を真面目に読んでらっしゃる学会員さんたちは、果たしてどれくらいの人がその違和感に気付くのでしょうね。
「間違いはない」と先入観を持ってらっしゃるから、額面どおりの情報しか受け取らないのでしょうか。
そうだとすればあまりにも貧相な感受性です。
熱心な学会員となるということが、どれほどの感受性を殺してきたのでしょうね。人間の持つ素晴らしい感性なのに、あまりにも悲しく寂しい限りです。
聖教新聞の職員も、頭の悪い人ばかりではないと思うのですが、写真の件といい近頃の内容を伺っていますと「やっつけ仕事」臭がプンプンしますね。
もはや何かを諦めているのか、それとも一生懸命頑張ってもこれが精一杯なのか…。
等身大パネル説、合成説、そしてまさかの剥製説!
全身整形した影武者はさすがに用意できないのでしょうか。
北の将軍様は何人か影武者がいたらしいですけど。
>放心状態の夫をムンクの叫び顔で支える妻の図でした。
奥様の心は叫びっぱなしなんでしょうね。
相変わらずの絶妙な河童さんの表現、拍手したいです。