真実と幻想と創価学会

創価学会について色々書いています。ほぼ毎週日曜更新。

共通の目的を持って活動する「ザ・ウェーブ」

2017-04-23 21:40:18 | カルト宗教
マインド・コントロールとは何か マインド・コントロールとは何か
価格:¥ 1,427(税込)
発売日:1995-08

第6章 永続的マインド・コントロールの実践-組織入会の過程 より

『ザ・ウェーブ』

 一九六九年、ある高校教師が、歴史の授業でナチス支配下のドイツにおける全体主義を教えようとしていた。彼は講義で映画を見せて全体主義を説明したが、学生たちは、ドイツの民衆がなぜヒトラーについていったのか、なぜだれもナチの行動を批判できなかったのかが、まったく理解できないという様子であった。そこで、その高校教師はある試みを行った。
 教師は、生徒に「規律と力を作り出せることを証明しよう」と提案し、姿勢、持ち物から、先生に対する呼び方、質問の仕方や答え方などについて細かく規律をつくり、軽いゲームのつもりで守ってみるように指導した。はじめ教師は嫌がられるのではないかと懸念したが、ふだん自由な雰囲気で教育されてきた生徒たちは、嫌がるどころか競争心をもって規律に従おうとした。不気味なことに、生徒たちは規律を覚えるたびに、次の規則を欲してゆき、授業終了のベルがなり終わっても、彼らはその規則を続けようとした。もはやゲームではなかった。

~中略~

 この教師の教科学習の試みは、とどまることを知らず、数日間で全校の生徒たちに浸透していった。ナチスの運動とそっくりであった。彼らは、自分達の自由と交換に、メンバー間の平等と「ザ・ウェーブ」グループに入っていない人に対する優越を得て、差別をし、攻撃をした。また彼らは、この運動はちょっとしたゲームであり、いつでもやめられるつもりでいた。しかし、やめようという者はほとんどいなくなり、そうした者は密告され、制裁を受けることになっていった。
 結局、この歴史教師は、メンバー全員を講堂に集め、テレビ画面を用意し、もう一度、ヒトラーの映画を見せ、自分たちのやっていることがナチスと同じであったことを示し、誰でもが第二のナチになって歴史が繰り返される危険性のあることを説明した。生徒たちは愕然として目が覚め、軍隊調の姿勢をくずし、軍旗をすてた。
 このように現実の場面で、高校教師という他者が大勢の高校生のこころと行動を操作してしまった。そして高校生自身は、そのことに操作者自身から告知されるまで気づかなかった。これが永続的マインド・コントロールなのである。

久しぶりに「マインド・コントロールとは何か」から紹介したいと思います。

本当にこんなことがあるんですねぇ。アメリカのカリフォルニア州での話ですが、この学校の高校生たち、流されやすすぎでしょw

この高校生達は自ら「ザ・ウェーブ」運動の旗や運動員章を作って所属意識を高めたそうです。

教師のやり方が上手かったのかな。日本の学校ではまあ成功しない実験だと思いますが。そもそも日本の学校は最初から規律が結構ありますからね。

それはさて置き、この実験で注目すべきは途中から生徒達自身が暗黙の元に規律を作って「ザ・ウェーブ」という運動のあるべき姿を体現していくことだと思います。

教師の強制ではなく、生徒達自らというのがキモですね。

全体主義にはそれだけある種の魅力があるのでしょう。それは個という概念の消去によって得られる様々な快感です。

自由な思想の恩恵に預かる我々からすれば、一見拒絶してしまうようなことですが、実はその中に身を浸すと少なからずの解放感を得られるのではないかと想像します。

まず個の責任から逃れられます。

やるべきこと、やらなければならないこと。人生において自らの責任で選択しなければならないことはいっぱいありますよね。この選択と責任から解放されます。

そして個の魅力に捉われることがなくなります。これはつまり、組織の魅力が個の魅力にフィードバックされるからです。

なので組織への批判へ極端に寛容でなくなります。自分自身への批判と同じに受け取るからです。

そして所属欲求が満たされます。同時に所属していない人に対しての差別意識が生まれ、優越感を覚えることが出来ます。この時の優越性は先に述べた「個の魅力」から解放された「組織の魅力」に拠るものになるため、自分が向上したわけでもないのに他者を見下すことが出来るのです。

努力もせず自身が上になったような錯覚に陥るわけです。これらはある種の魅力と言えましょう。

この熱狂の中にいる人たちは、自分たちの変容に気づきもせず、自らの意思で教師の提示した規律と思想に自分を重ね合わせようとします。そしてその「重ね合わせ」がピタッといけばいくほどに快感を覚えてしまうのだと思います。

センセイと呼吸を合わせるのよ~。との言葉が脳裏に横切りますねw

全体主義的だと言われる創価学会。池田氏も「全体主義が理想だ」と語っていました。

意外に簡単に「全体主義」の空気に染まれることを知っていただければ、創価の組織運営にも引っかかりを覚えることがあるかもしれませんね。


6 コメント

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花見には行かずじまいでした。 (ねず)
2017-04-27 00:20:37
 朝晩が微妙に寒いせいで、猫たちが人肌に温まった毛布を求めて寝床にやってきます。猫用にホットカーペットも敷いたままなのに、全然そっちには行ってくれないという(電気代注意)。

>ケン助
 え~、あれいいと思いますよ、部屋の見えない場所にGがいたら「ガタガタガタガタ」って教えてくれそうで(笑)。やっぱり実用的なのはミスリルの包丁ですかね?

 まずは前回の記事から。
>人間革命
 母は「我が家の経済革命のため」と言いつつ財務をやってますが、その金を半分でも貯金してればねえ…。
 現在の創価学会にとっての牧口氏や戸田氏は、池田氏の“前座”なんだと思います。「池田先生でさえも未だに恩師には頭が上がらない。だから私たちも永遠の師匠に絶対服従だ」と師弟不二を主張するためのダシに過ぎない、といいますか。

>キリスト教信者の言葉・考えだと知られていれば今のような形で学会の中心的な教義になってはいなかった
 例え聖書やコーランの一節であっても、池田氏が引用すれば、盲信的な学会員は切り抜きしかねません(笑)。選挙前ですからメッセージが増えるでしょうね~。

>全体主義
>その中に身を浸すと少なからずの解放感を得られる、個の責任から逃れられる
 心身を束縛されているがゆえの解放、というやつですね。絶対的な何かに全てを委ねれば、それは確かに楽でしょう。ただ盲目的に規律に従い、異端を徹底的に排除し、異論を挟むことなく与えられた役割を果たしてさえいれば、揺るぎない安寧が得られる。でもそれじゃ独立した意思を持つ個人として存在する意味がないのでは?というあたりの話は、個人的にはゲームの女神転生シリーズでおなじみです(苦笑)。

>自分が向上したわけでもないのに他者を見下す
 池田氏は各国の指導者や知識人と対談しており、数々の賞や名誉称号を貰っている!SGIは全世界で称賛されている!私たちは外部とは違う、創価学会仏(笑)なんだ!と主張する学会員の心理そのものです。
 
 たびたび引用の話で恐縮なのですが、ある日本の学者さんが、対談(インタビュー?)した相手から「先生の意見に全面的に賛同します」と言われた時に、「それはいけない。他人の考えをそのまま全面的に受け入れるなんてだめだ」と返したという逸話を読んだことがあります(うろ覚えですが大筋は合っているはず)。学会員さんは「それは科学の分野の話であって、宗教は違う」と反論するんだろうなあ…。
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宗教学 (ポピー)
2017-04-28 00:51:07
始めまして。家族の一人がバリ活で酷い目にあった事がある外部のポピーと申します。

2年くらい前からクロさんのブログを拝見していますが、長年活動された元信者さん達とは感覚的ですが違いを感じます。
客観的、論理的思考という点でしょうか。

外部から見た創価組織や信者って謎だらけなんです。組織の危うさはもうずっと昔から週刊誌や暴露本で知っていましたが、信者の気持ちや活動については殆ど知りませんでした。

変な組織だけど、信者はそれなりに幸せなんだろう。でも外部に対してはどこか恥らいもあるんだろうから、寄り添うように親切にしてくれるのかな。こんな程度の認識でした。

ここ2年間、元信者の方々のブログや寄せられたコメントを読んでびっくりしました。
生活上の変化を信心の深さや題目の量、はたまた選挙運動、布施の金額で計って説明し、それにあわせて行動してるなんて。
それに選民意識が強いんですって。(@_@)

なぜそのような状態になってしまったんでしょう? MC やザ・ウェーブ、アダルトチルドレン等々考えられますが、なんだかもうひとつしっくりいかなくて、「宗教学」という本を読み始めました。

それによると、宗教が古代から様々な悲劇を生み出しながらも今日まで受け継がれたのはそれなりの必然性が有ると。

一言で言えば、人間が常に、さまざまな様式の「共同体」を形式することによって生を営む存在であるから。

それゆえ宗教の基本構造は「虚構の人格を中心に掲げ、そこから発せられる法を紐帯として共同体を結成すること。」
と著者は定義しています。

確かに宗教って組織、共同体化されてますよね。少し、しっくりしてきました。

はじめてのコメントなのに長くなってすみません。よろしければ、クロさんの宗教に対してのご意見も伺ってみたいです。
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Unknown (けいこ)
2017-05-01 00:39:28
一言で言うと、真の友達ができにくい世の中で宗教が入り混み易い側面がある気はします。学校時代や職場でも、人と仲良くなりたくても自分から誰かに声かける勇気なく、まわりに相手にされずお昼は一人ぼっちで食べてる人、或いはいつも仲間とお茶飲み世間話はするけど、いない所で自分の悪口言われてたり、決して親友でない表面的な付き合いがざらにあります。その中でもし、誰かに親切に声かけられ悩みの相談も聞いてくれたら、ついふらっとその人を信じてみようかなと思うかも知れません。それが宗教やってる相手なら、半信半疑でどんな教えか、ちらっと聞いてみようと思っても不思議じゃないでしょう。

お酒好きな人には、誘って飲みに行ったり、映画好きは一緒に映画館へ、相手の誕生日を聞いたら手料理でお祝いしてあげたり、人の心を開くやり方をして折伏しなさいとの指導です。

このGWも何処か遊びに行った先で、出会った人を表に書き後で提出となってるんじゃないですかね。事前にプリントで渡されてた気がします。日付け付きで全国、友好活動の表を。会合で、お布施も集めてました。皆様、ご苦労様です。
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ねずさんへ (クロ)
2017-05-07 00:53:30
こんばんは~。
あっという間のゴールデンウィークでした。予想通り過ぎて最早何の驚きもないという。

うーん。見えないGは知らないままでいいのでは?しかもあの「ケン助」ですよ。知らせるだけ知らせていざ退治の時には逃げるかもしれない。
ミスリルの包丁は売って金にします。私は普通の包丁でいいのでw私にとってはそれが一番実用的かも。


>例え聖書やコーランの一節であっても、池田氏が引用すれば、盲信的な学会員は切り抜きしかねません(笑)。

今ならそうなりますね。なにせ海外の偉い方のスピーチや評論をパクる・・・もとい、日本で知られていないので翻訳して池田先生が言ったかのように広めることを専門とする部署があるくらいですからね。出典元は気にしてはいられないでしょう。
しかし戸田氏の時代だったらどうだったのかなぁ、と。あの頃は今ほど情報伝達ツールがありませんから、情報操作、印象操作もやりたい放題です。
それ故に、今現在こうまで学会オリジナルの単語のように位置づけられているのかと思いました。


>でもそれじゃ独立した意思を持つ個人として存在する意味がないのでは?

そうなんですよ。最初から個の自由とか尊厳と、絶対的な何かへの服従の二択を迫れば選択は違ってくると思うんです。疲れている人は後者を選びそうですがw
しかしカルト宗教をはじめとしたこのテの組織の巧妙なところは、選択の意識を持たせないところにあると思います。
マインド・コントロールの真骨頂でもある「誘導」です。
同調圧や群集心理も含まれていると思いますが、自分で客観的な判断ができない状態にして「誘導」しているのだと思います。
初めからねずさんの問いかけのように、服従による安寧は個人の存在を打ち消すのでは?と考えられる状況にはないのです。
そのような状況の中で知らずの内に選択した人間に対してこのような問いかけをすること自体が、ナンセンスになってしまうのでしょうね。
まずはこのような問いかけの意味を心に引っ掛けてもらうために、ただただ情報・知識をニュートラルに提示していくのが、今の私にできることかと思っています。

私もうろ覚えで恐縮なのですが、海外の学者さんは他の学者(同分野の研究者)と情報・意見交換などをする際、最後には必ず「で、君の意見は?」と相手独自の考えを聞くそうです。
日本人はよくそこで「どこそこの教授の考えと一緒です」とか「どこそこの論文と同じ意見です」みたいに答えるそうなのですけど、それでももう一度「それはその教授(論文)の考えだろ、君の意見を聞きたい」と問うと、ようやく自分の考えを言うそうです。
自分の考えがないわけでも、「一緒だ」と挙げた教授(論文)の考えと完全に一致するわけでもないんです。
ちゃんとあるけど、まずは言わないそうです。
学会員さんの入会動機も、これに似てる人がいないでもない気がします・・・。
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ポピーさんへ (クロ)
2017-05-07 21:42:20
はじめまして。コメントありがとうございます。
ご家族のお一人が学会員さんということで、状況的には私の家と似ていますね。
2年もの間このブログを読んで下さっているとのこと、嬉しく思います。


>変な組織だけど、信者はそれなりに幸せなんだろう。でも外部に対してはどこか恥らいもあるんだろうから、寄り添うように親切にしてくれるのかな。こんな程度の認識でした。

私も学会のことを調べて知る以前、ほとんど同じような気持ちでした。
信者本人たちは幸せで、好きでやっている。まあ、それはそうなんですけれど「好きにさせられている」「そう思い込まされている」のだとは露ほども思わず、でした。

宗教についてとのことですが。
私は宗教そのものについて特に勉強したり本を読んだりとしたことがないので、あくまで素人の個人的な考えになりますが。
私は自身に創価学会の問題が降りかかるまで宗教そのものに対する知識も本当に乏しく、またそれで何の不自由なく日常生活を送っていたというよくいる日本人の内の一人でした。
日本人ということに限っていえば、それで問題はないのだと思います。
日本に根付いている神道の精神はそれを宗教として捉えずとも、文化や生活と密接に関わっており、神道信者という厳密な概念や意識がないのはその必要がないからだと思います。
ポピーさんがご紹介して下さった本の「そこから発せられる法を紐帯として共同体を結成」という意味において、島国の日本ではあまり重要ではなく、上述のように必要になかったのではないかと。

また、ポピーさんが仰る「宗教」というそのものの存在で言えば、必要から生まれた後に人に利用されるようになった、のだと思います。
想像の話ですが、「神様」の始まりって人が何か(恐らくは自然現象・災害)を畏れたところからではないかと思っています。
そしてそれを人を励ますため、あるいは言うことを聞かせるため、あるいは集団としてまとめるため、そんな理由から「神様」を利用したのではと。仏教でいうところの方便ってやつですかね。それが宗教の始まりかと思います。
その成功例から「これは使える!」と思った人がいたのかいなかったのか、あるいは途中から変貌したのか、人間本位の、つまり個人・限られた人間の利益のために「神様」を利用して広まった宗教が、今の世にもあるいくつかの宗教でしょう。
宗教の必要性としては、昔は人の心の支えに必要なのだと思っていました。生き甲斐とか、弱ったときの心の支えですね。
それはそれで間違いではなく、その人の心を良くも悪くも利用する人間がいた、ということなのでしょう。
宗教の必要性としての共同体は、多くは西洋か、国や地域のほとんどが一つの宗教という国柄での話かなと思います。
以前にこのブログで記事(「ハイコンテクストな日本と宗教」という記事)にしたことがあるのですが、「ハイコンテクスト文化(知識や価値観などコミュニケーションツールの共有)」というものがありまして、究極的には一般的な宗教というものは便利な「ハイコンテクスト」化の一つの形でもあったのかなと思っています。

私の方こそ、興味深いテーマを頂いてつい長文になってしまいました。
お読み下さり、ありがとうございました。
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けいこさんへ (クロ)
2017-05-07 21:54:19
>真の友達ができにくい世の中で宗教が入り混み易い側面がある気はします。世の中で宗教が入り混み易い側面がある気はします。

これは新入生が入ったばかりの大学で実際に行われている勧誘行動にも現れていますね。
宗教という実態を隠してのサークル勧誘に、大学側も警戒を呼びかけているところがあります。
このような人間関係をエサにした宗教勧誘は、創価学会が二代目戸田会長のもとで広まった時代の背景にも当てはまりますね。
地方から就職で若者が都市部に集まった時代、まさにけいこさんが仰ったような「親切」で次々折伏が決まっていた時代ですね。

現代でもこの手法は使われていることは使われていますが、それ以上のコミュニケーションツールとしてスマホが登場しており、実際寂しさから宗教やっている人間についていくような人は稀ではないかと思います。
学会の色々な情報も、大本営やバリ活さんが発信している(学会にとって)良い情報よりも、事実あるいは真実に近い情報の方が人の目に触れやすい状況となっております。
まあそれでも、今の時代でもオウムの後継団体(麻原原理主義)に入っちゃうような人もいますから、何かしらのきっかけで足を踏み入れる人はいるんでしょうけれどね。

けいこさんが冒頭書かれた「真の友達ができにくい」という状況。
学会に入ればもっとできにくくなるという実態を、自分の判断で入会する人は入る前に気付かなければいけませんね。
学会ではGWは重要な友好期間ですね。
そのような期間を設けるものを友人とは言わないのです。その当たり前の事実に、多くの人が気づいてくれることを願います。
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