1 はじめに
子どもは、自分の中に行動様式を取り込むときに、周囲の大人から影響されることが多い。また、映画やテレビ、童話などの主人公からも行動の善悪を学び、ものの考え方の基本を身につける。映像作品(テレビ番組)は、作られた国の文化的影響を受けやすく、原作に必ずしも忠実に作られているわけではないということに注目して、文化差に関する考察を以下に述べてみたい。
2 『オズの魔法使い』について
(1)構成と改作
『オズの魔法使い』の作者はフランク・ボームであり、アメリカの子ども達を1世紀以上にわたって魅了し続けてきた物語である。1900年にシカゴの出版社から出版されたものである。主人公はドロシーである。シリーズとしては13作ある。(1)
『オズの魔法使い』は、オズの国を舞台にしたシリーズの第一作目で、日本出版社共通で「世界の名作」としてリリースされている。
ミュージカルや、映画になっていくにつけ作品の内容にどんどん手を加えていって原作とは似ても似つかないものとなっていった代表作である。
おおまかに構成を以下に述べると、
①ドロシーの両親は既に他界している。
②ドロシーが住んでいるカンザスは、からからに乾いた灰色の世界。
③ドロシーの友達は、子犬のトトだけ。それでもドロシーは楽しそうに生活している。現在ドロシーを育てているヘンリーおじさんとエマおばさんは疲れていて滅多に笑わない。
④カンザスの農場経営は苦しく、時として竜巻が襲う。
⑤竜巻がドロシーの農場を襲い、家ごとドロシーは吹き飛ばされ、オズの国にやってくる。
⑥その後、ドロシーはかかし、木こり、ライオンの 3人を連れて、オズの国を冒険し、カンザスに帰る為にオズの魔法使いの言う通り、悪い魔女を倒す。
⑦悪い魔女を倒したら、皆は「ここで一緒に暮らそうよ」と言ってくれる。
⑧けれどドロシーは願う。「それでも私はカンザスに帰りたい」と。
⑨ドロシーは、銀の靴の踵を鳴らして、カンザスに帰っていく。
というようになっている。
ここまで至るには、1910年にウイリアム・シーリングによる映画化が3本。フランク・ボームの長男のフランクによる改作によって、かえってドタバタ劇と化し、1924年に3度目の映画化となり、プロデューサーのゴールドウィンが映画化権を取得して、おとぎ話として人間でないものを、人間が演じるという原作の変更を行った。また、作家ラングレーは(1911-1980)大胆にこの物語を扱い、鋭い解釈のもと改作を行っていった。(2)
(2)無垢なる子どものイメージを求めて 性善説の立場から
『オズの魔法使い』が書かれ、映画化されたアメリカの時代というのは大恐慌時代である。「1930年代の後半、人口の半分以上の8500万人のアメリカ人が、毎日映画館に行き・・」と書かれている。(3)
この時代のアメリカ人達は、無垢な子どもたちの姿を求めて映画館に集まり、悪を正し、よりよい世界を創造する若さと希望を映画に求めていった。子どもたちは非常に高い評価と、楽しい娯楽を映画という形で与えられていった。
(3)現実の悲惨さ
しかしながら、大恐慌による貧困や、病気等々の現実は決して否定できないことではある。児童福祉と公的保育が制度化されたまさにその時代に、アメリカ人は多くの子どもたちが悲惨な生活を大恐慌によって余儀なくされていたのである。だからこそ、子どもたちや若者がよりよい生活をもたらすのだという希望をもって、映画を見ていたのである。
(4)『オズの魔法使い』の信頼
大恐慌時代の貧困等の悲惨さを乗り越えて、成功するためには行動が必要であること、および家庭と家族の価値を、あるいは子どもの潜在的な力に対するアメリカ人の絶対的信頼を『オズの魔法使い』は表現している。
主人公のドロシーは、髪を三つ編みにして、ヘンリーおじさんと、エムおばさんの農場で、跳ね回る黒い犬のトトと明るく生きている。
やさしく冗談も言うが、不公正には激怒する。トトを連れ去る、ミス・ガルチにである。このあたりは動物的なドロシーの性格を現している。
また、トトが逃げ帰って来たときは、ドロシーも逃げ出すという幼稚な植物的な面も表現されている。
彼女と、トトを別の国であるオズの国に運んでいこうとする竜巻にも遭遇する。ところが、ドロシーは新しい環境に適応する能力も持っている。さらに、家に帰ろうととも主張する。
このドロシーに見られる考え方は、奇蹟を信じ、ヒーローを信じようとするアメリカの子どもたちのすべてのことはよくなるのだという楽観的な人生観である。
ドロシーは、アメリカ人特有の、あるいは共通の自立した、勇敢な、自己肯定感に満ちた子どもなのである。魔法使いや、ヒーロー、夢に頼るのではなく、自分自身を信じ、肯定的に生きることがもっとも大切であることを学ぶのである。
3 文化的スクリプトの違い
文化的スクリプトとは、「特定の文化に属する人々が、ある程度共通して持っているスクリプト」である。また、スクリプトとは、「認知心理学では、時間的・因果的構造を持つ体系的な知識のまとまり」を意味している。
原作を改作して多くは悲劇で終わる日本と、ハッピーエンドで終わるアメリカの差は、日米の一次的コンロロールと二次的コントロールの違いがあげられよう。
日本では、親が比較的悲しい物語を好む。センチメンタリズムは日本人の固有の傾向であって、このことは日本人の「気持ち主義」、つまり人の気持ちを重視し、相手の気持ちを知ろうとする傾向を示している。自分の行動を抑制し、相手を援助するために生きることを日本人が好むからでもある。運命に身を任せて生きることによって心の平静を保つという実に東洋的な考えが日本人には潜んでいる。
対してアメリカでは、登場人物が死ぬようなシーンは好まれない。
アメリカ人は、自分の行動によって、直接相手に働きかける一次コントロールを好むのである。まさに『オズの魔法使い』の世界である。コントロールを取り戻そうとする努力が報われるとする主義をアメリカ人は好むのである。
5 葛藤解決における回避方略と対決方略
アメリカ映画に共通しているのは、「葛藤は、当事者の冷静な同意を得て、合理的に解決しなければならない」というスクリプトである。
『オズの魔法使い』は、自己肯定的に、あくまで自己を信じ、いかなるトラブルも解決していく。魔法とか、人間の知を超えた手段によって解決をしようとはしていないのである。ドロシーの姿は、冷静に、合理的にトラブルや葛藤を解決しようとするアメリカ人の姿を表現しているのである。
日本とアメリカの文化の差異が感じられる場面である。
6 日米の子供観の違い
日米のしつけ観の違いが、子供観の違いに大きく影響を与えている。つまりよい子アイデンティの違いである。社会的能力と言語的自己主張の領域において、日米では極端に違っている。従順で決まりを守る子がよい子であるというのが日本で、今すぐ何かを辞めさせたい状況でよい子だからという説得は功を奏しない。
また、「気持ち主義」という点でも日米の子供観は違っている。「人の気持ちを重視し、相手の気持ちを知ろうとする傾向」を気持ち主義というのであるが、子どもが悪いことをしているときに日本の母親は説得の根拠として相手の気持ちを持ち出す。22%になる。アメリカは、気持ちを持ち出す母親は、7%である。
これは親子の同室就寝の違いもあって、日本では同室就寝、アメリカでは別室就寝が好まれる。親子間の距離感もまた子供観の違いに結びついている。物理的、心理的に日米では相違点があることをあげたい。
(1)曽根田憲三著 『アメリカ文学と映画』 1999年 開文社出版 pp.39-78
(2)前掲書 p.51
(3)キャシー・マーロック・ジャクソン著 牛渡 淳訳 2002年 東信堂 p.96
※幼児のDVD等々も愚生の興味対象であります。
子どもは、自分の中に行動様式を取り込むときに、周囲の大人から影響されることが多い。また、映画やテレビ、童話などの主人公からも行動の善悪を学び、ものの考え方の基本を身につける。映像作品(テレビ番組)は、作られた国の文化的影響を受けやすく、原作に必ずしも忠実に作られているわけではないということに注目して、文化差に関する考察を以下に述べてみたい。
2 『オズの魔法使い』について
(1)構成と改作
『オズの魔法使い』の作者はフランク・ボームであり、アメリカの子ども達を1世紀以上にわたって魅了し続けてきた物語である。1900年にシカゴの出版社から出版されたものである。主人公はドロシーである。シリーズとしては13作ある。(1)
『オズの魔法使い』は、オズの国を舞台にしたシリーズの第一作目で、日本出版社共通で「世界の名作」としてリリースされている。
ミュージカルや、映画になっていくにつけ作品の内容にどんどん手を加えていって原作とは似ても似つかないものとなっていった代表作である。
おおまかに構成を以下に述べると、
①ドロシーの両親は既に他界している。
②ドロシーが住んでいるカンザスは、からからに乾いた灰色の世界。
③ドロシーの友達は、子犬のトトだけ。それでもドロシーは楽しそうに生活している。現在ドロシーを育てているヘンリーおじさんとエマおばさんは疲れていて滅多に笑わない。
④カンザスの農場経営は苦しく、時として竜巻が襲う。
⑤竜巻がドロシーの農場を襲い、家ごとドロシーは吹き飛ばされ、オズの国にやってくる。
⑥その後、ドロシーはかかし、木こり、ライオンの 3人を連れて、オズの国を冒険し、カンザスに帰る為にオズの魔法使いの言う通り、悪い魔女を倒す。
⑦悪い魔女を倒したら、皆は「ここで一緒に暮らそうよ」と言ってくれる。
⑧けれどドロシーは願う。「それでも私はカンザスに帰りたい」と。
⑨ドロシーは、銀の靴の踵を鳴らして、カンザスに帰っていく。
というようになっている。
ここまで至るには、1910年にウイリアム・シーリングによる映画化が3本。フランク・ボームの長男のフランクによる改作によって、かえってドタバタ劇と化し、1924年に3度目の映画化となり、プロデューサーのゴールドウィンが映画化権を取得して、おとぎ話として人間でないものを、人間が演じるという原作の変更を行った。また、作家ラングレーは(1911-1980)大胆にこの物語を扱い、鋭い解釈のもと改作を行っていった。(2)
(2)無垢なる子どものイメージを求めて 性善説の立場から
『オズの魔法使い』が書かれ、映画化されたアメリカの時代というのは大恐慌時代である。「1930年代の後半、人口の半分以上の8500万人のアメリカ人が、毎日映画館に行き・・」と書かれている。(3)
この時代のアメリカ人達は、無垢な子どもたちの姿を求めて映画館に集まり、悪を正し、よりよい世界を創造する若さと希望を映画に求めていった。子どもたちは非常に高い評価と、楽しい娯楽を映画という形で与えられていった。
(3)現実の悲惨さ
しかしながら、大恐慌による貧困や、病気等々の現実は決して否定できないことではある。児童福祉と公的保育が制度化されたまさにその時代に、アメリカ人は多くの子どもたちが悲惨な生活を大恐慌によって余儀なくされていたのである。だからこそ、子どもたちや若者がよりよい生活をもたらすのだという希望をもって、映画を見ていたのである。
(4)『オズの魔法使い』の信頼
大恐慌時代の貧困等の悲惨さを乗り越えて、成功するためには行動が必要であること、および家庭と家族の価値を、あるいは子どもの潜在的な力に対するアメリカ人の絶対的信頼を『オズの魔法使い』は表現している。
主人公のドロシーは、髪を三つ編みにして、ヘンリーおじさんと、エムおばさんの農場で、跳ね回る黒い犬のトトと明るく生きている。
やさしく冗談も言うが、不公正には激怒する。トトを連れ去る、ミス・ガルチにである。このあたりは動物的なドロシーの性格を現している。
また、トトが逃げ帰って来たときは、ドロシーも逃げ出すという幼稚な植物的な面も表現されている。
彼女と、トトを別の国であるオズの国に運んでいこうとする竜巻にも遭遇する。ところが、ドロシーは新しい環境に適応する能力も持っている。さらに、家に帰ろうととも主張する。
このドロシーに見られる考え方は、奇蹟を信じ、ヒーローを信じようとするアメリカの子どもたちのすべてのことはよくなるのだという楽観的な人生観である。
ドロシーは、アメリカ人特有の、あるいは共通の自立した、勇敢な、自己肯定感に満ちた子どもなのである。魔法使いや、ヒーロー、夢に頼るのではなく、自分自身を信じ、肯定的に生きることがもっとも大切であることを学ぶのである。
3 文化的スクリプトの違い
文化的スクリプトとは、「特定の文化に属する人々が、ある程度共通して持っているスクリプト」である。また、スクリプトとは、「認知心理学では、時間的・因果的構造を持つ体系的な知識のまとまり」を意味している。
原作を改作して多くは悲劇で終わる日本と、ハッピーエンドで終わるアメリカの差は、日米の一次的コンロロールと二次的コントロールの違いがあげられよう。
日本では、親が比較的悲しい物語を好む。センチメンタリズムは日本人の固有の傾向であって、このことは日本人の「気持ち主義」、つまり人の気持ちを重視し、相手の気持ちを知ろうとする傾向を示している。自分の行動を抑制し、相手を援助するために生きることを日本人が好むからでもある。運命に身を任せて生きることによって心の平静を保つという実に東洋的な考えが日本人には潜んでいる。
対してアメリカでは、登場人物が死ぬようなシーンは好まれない。
アメリカ人は、自分の行動によって、直接相手に働きかける一次コントロールを好むのである。まさに『オズの魔法使い』の世界である。コントロールを取り戻そうとする努力が報われるとする主義をアメリカ人は好むのである。
5 葛藤解決における回避方略と対決方略
アメリカ映画に共通しているのは、「葛藤は、当事者の冷静な同意を得て、合理的に解決しなければならない」というスクリプトである。
『オズの魔法使い』は、自己肯定的に、あくまで自己を信じ、いかなるトラブルも解決していく。魔法とか、人間の知を超えた手段によって解決をしようとはしていないのである。ドロシーの姿は、冷静に、合理的にトラブルや葛藤を解決しようとするアメリカ人の姿を表現しているのである。
日本とアメリカの文化の差異が感じられる場面である。
6 日米の子供観の違い
日米のしつけ観の違いが、子供観の違いに大きく影響を与えている。つまりよい子アイデンティの違いである。社会的能力と言語的自己主張の領域において、日米では極端に違っている。従順で決まりを守る子がよい子であるというのが日本で、今すぐ何かを辞めさせたい状況でよい子だからという説得は功を奏しない。
また、「気持ち主義」という点でも日米の子供観は違っている。「人の気持ちを重視し、相手の気持ちを知ろうとする傾向」を気持ち主義というのであるが、子どもが悪いことをしているときに日本の母親は説得の根拠として相手の気持ちを持ち出す。22%になる。アメリカは、気持ちを持ち出す母親は、7%である。
これは親子の同室就寝の違いもあって、日本では同室就寝、アメリカでは別室就寝が好まれる。親子間の距離感もまた子供観の違いに結びついている。物理的、心理的に日米では相違点があることをあげたい。
(1)曽根田憲三著 『アメリカ文学と映画』 1999年 開文社出版 pp.39-78
(2)前掲書 p.51
(3)キャシー・マーロック・ジャクソン著 牛渡 淳訳 2002年 東信堂 p.96
※幼児のDVD等々も愚生の興味対象であります。