1 解脱について
シャンカラの最期が、非常に印象に残っている。シャンカラは、ヴェーダンタ学派の創始者で、死を受け入れることについて「死は肉体が無くなるしかすぎないのだ」「魂はあるのだ」とした。このことに非常に心を揺さぶられた。
つまり解脱ということを考えさせられたのである。何のために人間は生きなければならないかということ、人間である以上解脱を目的に生きていくのかという疑問があったからである。
インド思想はこの点が明確である。人生の目的は、ダルマと、アルタとカーマであるとする。
ダルマは善である。アルタは富や利である。カーマは愛である。問題はダルマであって、インドにおいて善いこととは、命じられた行為から生じるもの、義務とされる。
そして人生の目的はもうひとつある。それがモークシャと言われるものである。つまり解脱である。これが最高の人生の目的となる。
なぜ最高の目的となるか。
常住であるからである。ダルマ、アルタ、カーマは無常であるからである。我々は、金は永遠ではないことを知っている。知識だって滅亡する。愛だって無くなってしまう。それを我々は経験上知っている。
ダルマとは、天界の獲得である。天界で過ごすことが無常である。社会的な活動の報いとして天界にいくことができるのである。
モークシャはなぜ常住なのか。天啓聖典に書かれているから常住である。真実を知ることは解脱のためである。
暑さ、寒さの苦が絶対的に無くなるとき、苦しみが全部無くなる方法がある。それが知である。知と対比されるのが、行為・苦行・祭式である。知が強いのがインド哲学である。
解脱の説明として最もこころに残るのが、「不死」である。
不死については、シャンカラの注釈に「欲望がないから不死である。さまざまな欲望はアートマンでないものを対象とし、死は無知を特徴とする。従って、死と離れると賢者は生きたままで不死になる」とある。衝撃である。なぜこのようなことが言えるのであろうか。
そこで問題としたいのが、解脱への手段である。
何かを知って解脱を獲得するのであろうか。ウパニシャドの立場からは、「ブラフマンを知る」「プルシャを知る」「ヴェーダーンタの知識を理解する」「神を知る」とある。
行の面からは、「認識の不二」「ブラフマンの念想」「精神統一」とある。
さらに、バガバッド・ギーターには、「神の熱烈な信仰」「神の恩寵」とある。
人は必ず死ぬ。
若いときから、全ての人が死ぬのなら、今現在を生きているこの瞬間も意味が無いのではないかと考えてきた。どうせゴミのように捨てられるのだったら、なぜ生きるのだろうかということであった。それがインド思想ではまことに明快に答えられている。
正直、まだまだよく分かっていない分野でもある。果たして本当にそうであろうかと思う。アートマンだって、ブラフマンでも、概念の範疇の中ではあるまいかという疑問も解決できていない。しかし、これは魅力がある。虚無主義からはなんの解決も見いだせなかったのに対して、少なくとも明快な回答と思考体系があるからである。
2 バガバッド・ギーターの魅力
ヒンドゥー教の最も代表的な聖典であるバガバッド・ギーターは、「神の歌」とも呼ばれる。
クリシュナのアルジュナに対する教えが中心で、報酬や私心を考えずに、結果を神に委ねることを教えている。偶然であるが、20代にこの書物を岩波文庫で入手してから、読ませていただくようになった。短編でもあり、どこからでも読むことができるし、なんと言ってもガンディーの愛読書でもあったからである。
アートマンについての文章も散見されて、私にもずいぶん納得のいく場面が多い。アートマンは神の一部であるという指摘は、興味をそそる。
さらに、ヒンドゥー教徒の願いは「神の姿を見たい」というものである。私もそうである。不遜なことではあるが。
これからも生涯学習として取り組んでいきたい。
※思いつきメモです。参考文献はたくさんありすぎてあえてここには書きませんが、一冊だけあげれば立川武蔵著「はじめてのインド哲学」講談社現代新書でしょうか。ここに書いたようなことは、一切書いてありませんが(^0^)
シャンカラの最期が、非常に印象に残っている。シャンカラは、ヴェーダンタ学派の創始者で、死を受け入れることについて「死は肉体が無くなるしかすぎないのだ」「魂はあるのだ」とした。このことに非常に心を揺さぶられた。
つまり解脱ということを考えさせられたのである。何のために人間は生きなければならないかということ、人間である以上解脱を目的に生きていくのかという疑問があったからである。
インド思想はこの点が明確である。人生の目的は、ダルマと、アルタとカーマであるとする。
ダルマは善である。アルタは富や利である。カーマは愛である。問題はダルマであって、インドにおいて善いこととは、命じられた行為から生じるもの、義務とされる。
そして人生の目的はもうひとつある。それがモークシャと言われるものである。つまり解脱である。これが最高の人生の目的となる。
なぜ最高の目的となるか。
常住であるからである。ダルマ、アルタ、カーマは無常であるからである。我々は、金は永遠ではないことを知っている。知識だって滅亡する。愛だって無くなってしまう。それを我々は経験上知っている。
ダルマとは、天界の獲得である。天界で過ごすことが無常である。社会的な活動の報いとして天界にいくことができるのである。
モークシャはなぜ常住なのか。天啓聖典に書かれているから常住である。真実を知ることは解脱のためである。
暑さ、寒さの苦が絶対的に無くなるとき、苦しみが全部無くなる方法がある。それが知である。知と対比されるのが、行為・苦行・祭式である。知が強いのがインド哲学である。
解脱の説明として最もこころに残るのが、「不死」である。
不死については、シャンカラの注釈に「欲望がないから不死である。さまざまな欲望はアートマンでないものを対象とし、死は無知を特徴とする。従って、死と離れると賢者は生きたままで不死になる」とある。衝撃である。なぜこのようなことが言えるのであろうか。
そこで問題としたいのが、解脱への手段である。
何かを知って解脱を獲得するのであろうか。ウパニシャドの立場からは、「ブラフマンを知る」「プルシャを知る」「ヴェーダーンタの知識を理解する」「神を知る」とある。
行の面からは、「認識の不二」「ブラフマンの念想」「精神統一」とある。
さらに、バガバッド・ギーターには、「神の熱烈な信仰」「神の恩寵」とある。
人は必ず死ぬ。
若いときから、全ての人が死ぬのなら、今現在を生きているこの瞬間も意味が無いのではないかと考えてきた。どうせゴミのように捨てられるのだったら、なぜ生きるのだろうかということであった。それがインド思想ではまことに明快に答えられている。
正直、まだまだよく分かっていない分野でもある。果たして本当にそうであろうかと思う。アートマンだって、ブラフマンでも、概念の範疇の中ではあるまいかという疑問も解決できていない。しかし、これは魅力がある。虚無主義からはなんの解決も見いだせなかったのに対して、少なくとも明快な回答と思考体系があるからである。
2 バガバッド・ギーターの魅力
ヒンドゥー教の最も代表的な聖典であるバガバッド・ギーターは、「神の歌」とも呼ばれる。
クリシュナのアルジュナに対する教えが中心で、報酬や私心を考えずに、結果を神に委ねることを教えている。偶然であるが、20代にこの書物を岩波文庫で入手してから、読ませていただくようになった。短編でもあり、どこからでも読むことができるし、なんと言ってもガンディーの愛読書でもあったからである。
アートマンについての文章も散見されて、私にもずいぶん納得のいく場面が多い。アートマンは神の一部であるという指摘は、興味をそそる。
さらに、ヒンドゥー教徒の願いは「神の姿を見たい」というものである。私もそうである。不遜なことではあるが。
これからも生涯学習として取り組んでいきたい。
※思いつきメモです。参考文献はたくさんありすぎてあえてここには書きませんが、一冊だけあげれば立川武蔵著「はじめてのインド哲学」講談社現代新書でしょうか。ここに書いたようなことは、一切書いてありませんが(^0^)