ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

吉原御免状

2007-10-25 05:00:00 | 読書
明暦3年(1657年)旧8月14日、松永誠一郎は浅草日本堤の吉原を歩いていた。

育ての親であり師である宮本武蔵の遺言で、26歳になったら肥後の山を出、江戸吉原の庄司甚右衛門を訪ねよということであった。

     

実はこの小説、半分ぐらいは歴史の解説ではなかろうかと思えるほど、吉原がどうの、当時の湯屋はどうの、柳生がどうの、花魁はどうのとやたらと解説が多い。

まぁ、勉強にはなるし、ストーリーも面白い。

タイトルの吉原御免状とは、神君御免状とも言い大御所・家康が庄司甚右衛門に対して、吉原に色街の営業を許可したものであった。
単にそれだけのものなら、柳生家も執拗に狙いはしないのであろうが、このお話は家康の影武者だった二郎三郎という者が、家康そのものが亡き後も家康を演じ続け、徳川家としてもにっちもさっちも行かなくなり、家康の二郎三郎が世を去る時この御免状を書いたことに秘密があった。

この二郎三郎という者を家康の影武者に仕立てたのは天海僧正だが、その天海は実は明智光秀だったという凝りようなのだ。

誠一郎は吉原に滞在中、高尾という吉原一の花魁をあてがわれる。
そして、誠一郎にあこがれる謎の少女おしゃぶ、誠一郎と交じり合うことで過去にタイムスリップさせてくれる比丘尼・おばばさま、柳生の命を受けた女忍者・勝山も誠一郎に惚れてしまう。

吉原の店を仕切る甚右衛門たちは傀儡子の一族であった。
家康の差別政策をまともに食らっていたのは傀儡子や旅芸人や比丘尼など『道々の輩』である。定住するところを持たない『道々の輩』は団結して助け合った。吉原の存在もその一つであると著者は主張している。

     

兎に角、誠一郎は二天一流、滅法強い。
表柳生の総帥・宗冬は弟である裏柳生の総帥・烈堂=義仙を倒すために、誠一郎に新陰流の奥義を教えるのだった。

この神君御免状の謎とは、表柳生は何故裏柳生を倒さねばならなかったのか・・・二郎三郎が家康の影武者であり、甚右衛門とも面識があったこと、『道々の輩』は団結していたことがヒントです。


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