2ヶ月近く前の話になってしまった下田開国博物館。
下田の歴史そのものなので、内容は紹介しきれないほどディープである。

最初の展示は下田城。下田にお城があったことは一般的な歴史書物には書かれていない。時代は豊臣秀吉の小田原攻めの頃。北条氏征伐にあたり、豊臣軍はここ下田城の攻略も行っていた。

次に江戸時代にうつり、海上交通の取り締まりで下田奉行所を置いたとされる。鎖国体制のなかでも海防の要地として松平定信が巡視を行ったりした。

ペリー艦隊の来航後、吉田松陰が密航を企てたのも下田であった。

余談ではあるが、ペリー艦隊の下田停泊位置図が展示してあった。その船の名前が面白い。ミシシッピーは太平洋戦争当時の戦艦であるし、レキシントンは珊瑚海海戦で日本の翔鶴・瑞鶴と交戦、沈没したアメリカの空母である。有名な艦名は踏襲されるのである。

幕末に日本に来航したペリーとロシアのプチャーチンの航路図が展示してあった。どちらも喜望峰を回り、インド洋経由で来ている。

ペリーに遅れること1ヵ月半後に、長崎に来航したのがロシアのプチャーチンだった。1854年の日米和親条約に続き1855年に日露和親条約を締結した。下の解説にあるとおり、日露国境の定めなどを行い、千島の北方領土などがこのとき決まった。

唐人お吉。下田総領事館の初代駐日領事タウンゼント・ハリスに看護人として派遣された女性。

