兵庫陶芸美術館に「縄文-いにしえの造形と意匠-」を見に行ってきた。篠山市の今田町という辺鄙なところにあるので、バイクを飛ばしてツーリングがてらひとっ走り見てきたのだ。三田西で高速を降りて、地図で道がわからんかったのだが、看板通りに走ったら無事ついたのだ。
で、3フロアにわたって繰り広げれらた縄文ワールドは激しく私の魂を揺さぶったのであった。
火焔土器というのも写真では見ていて知っていたつもりになっていた。しかし、実物の迫力は全く違う。写真を撮ることを仕事にもしているが、その無意味さに愕然友するが、まあええ。火焔土器の見事さ、吹き込まれている命、作った人間の知性、生と死への敬虔さ。それらが一つになって押し寄せてくるのだ。
火焔土器には人面が施されているものがあって、興味を引いた。その眼が吊り目なんだよねえ。縄文人というとどうも、「原人」とかアイヌのようなイメージで無神経に教科書やらで描かれているが、非常に大きな間違いを犯しているのではないか。東北地方の縄文人なら、北方系のはずで、大陸北方の狩猟民の面影に近いものでなければならないのではないか、とふと思ったのだ。
で、感動が最高潮に達したのは、遮光器土偶との対面であった。あの、宇宙人のような土偶と、ついに出あえたのであった。仔細に見つめれば、上半身は裸で、模様はたぶん刺青であろう。そしてネックレスをしている。あのサングラスのような眼の秘密は解明できず。
そして、涙を誘ったのが、手形および足形付土製品であった。これは長辺15センチほどの小判形の素朴な焼き物で、中心にこどものちいさな手形や足形がひとつ、付けられているものだ。小判の上部には穴があり、首から吊るしていたのであろうとのこと。なんのために? 亡くした子供を愛するが故である。土偶は、呪術的な使用がなされたといわれており、死者と埋葬されることも多かったそうだ。小さな土偶もいくつか展示されていたが、悲しい顔をしているものが多いような気がした。
ともあれ、素晴らしい展示だ。日本の縄文時代は13000年前から始まっており、そのころから既に土器を作っていた。中国にはもっと古いものがあったのかな、と考えてしまうが、縄文土器が現在人類最古の土器なのである。このことを日本人は強く心に刻みつけるべきではないか。黄河文明が起こったのは、それからさらに6000年もさかのぼる、7000年前なのだ。
これだけの土器を作る知性と感性がありながら、三内丸山のような巨大建造物を作る高度な土木・建築的技術を持っていながら、文字を残さなかった縄文人。使えなかったのではなく、使わなかったのではないか。
唯一惜しむらくは、九州の縄文土器が展示されていなかったこと。ま、これはしゃーないでしょうな。九州が出すなら東北は出さない、ってことになるでしょうから。
いやー、久しぶりに魂が揺さぶられました。行かない奴はあほですな。
で、3フロアにわたって繰り広げれらた縄文ワールドは激しく私の魂を揺さぶったのであった。
火焔土器というのも写真では見ていて知っていたつもりになっていた。しかし、実物の迫力は全く違う。写真を撮ることを仕事にもしているが、その無意味さに愕然友するが、まあええ。火焔土器の見事さ、吹き込まれている命、作った人間の知性、生と死への敬虔さ。それらが一つになって押し寄せてくるのだ。
火焔土器には人面が施されているものがあって、興味を引いた。その眼が吊り目なんだよねえ。縄文人というとどうも、「原人」とかアイヌのようなイメージで無神経に教科書やらで描かれているが、非常に大きな間違いを犯しているのではないか。東北地方の縄文人なら、北方系のはずで、大陸北方の狩猟民の面影に近いものでなければならないのではないか、とふと思ったのだ。
で、感動が最高潮に達したのは、遮光器土偶との対面であった。あの、宇宙人のような土偶と、ついに出あえたのであった。仔細に見つめれば、上半身は裸で、模様はたぶん刺青であろう。そしてネックレスをしている。あのサングラスのような眼の秘密は解明できず。
そして、涙を誘ったのが、手形および足形付土製品であった。これは長辺15センチほどの小判形の素朴な焼き物で、中心にこどものちいさな手形や足形がひとつ、付けられているものだ。小判の上部には穴があり、首から吊るしていたのであろうとのこと。なんのために? 亡くした子供を愛するが故である。土偶は、呪術的な使用がなされたといわれており、死者と埋葬されることも多かったそうだ。小さな土偶もいくつか展示されていたが、悲しい顔をしているものが多いような気がした。
ともあれ、素晴らしい展示だ。日本の縄文時代は13000年前から始まっており、そのころから既に土器を作っていた。中国にはもっと古いものがあったのかな、と考えてしまうが、縄文土器が現在人類最古の土器なのである。このことを日本人は強く心に刻みつけるべきではないか。黄河文明が起こったのは、それからさらに6000年もさかのぼる、7000年前なのだ。
これだけの土器を作る知性と感性がありながら、三内丸山のような巨大建造物を作る高度な土木・建築的技術を持っていながら、文字を残さなかった縄文人。使えなかったのではなく、使わなかったのではないか。
唯一惜しむらくは、九州の縄文土器が展示されていなかったこと。ま、これはしゃーないでしょうな。九州が出すなら東北は出さない、ってことになるでしょうから。
いやー、久しぶりに魂が揺さぶられました。行かない奴はあほですな。