じゅんこの部屋 

自分探しから始まった幸せへの道・・いくつになっても旬な女性で生きるカギ☆

人生に問いを迫られるとき

2010-01-11 07:30:26 | 世事情いろいろ
「ビハーラ僧」とは、末期患者に対する仏教ホスピス、または苦痛緩和と、癒しの支援活動を
する僧侶を言うそうである。

浄土真宗本願寺派による「ビハーラクリニック」なるものもあるらしい。

人生の終末を前にした本人や家族の悩みに、耳を傾けたりするようだが、あるビハーラ僧は
「僧侶としてどう役に立てるかは、まだ見えない」と言っている。

患者の死や家族の悲嘆を受け止められず、うつ状態で離脱した僧もいるそうだ。

こんな記事を読んだ人は、仏教とはなんぞや、とますます頼りなく誤解、曲解するだろう。

それでなくても、仏教と聞けば、念仏称えたら死んだら極楽、死んだら仏。。。
だから、死に際になって聞くのが仏教で、僧侶の務めは、終末医療の一端のように、枕辺に
寄り添い、聞いて語るもの、と世間の人は思ってしまうに違いない。

土曜の夜、テレビでドキュメンタリー「二本の木」が放映されていた。

妻が小細胞がんに、そして7か月後には自分が胃がんを宣告される。
NHKのドキュメンタリー・ディレクターだった小沢爽さんが、妻と互いに存在を確かめ合った、
命と愛の記録。。。

その中で、妻が言う。「大きな生きる目的があれば・・・」。
しかし、それを持たない今、命の灯火が消えるまで、互いのがんを支え合い、共に生きる・・・
大変なことだが、その一途な思いで、いたわりあって過ごす日々が、切々と語られていた。
一部分しか見てないので、あとは分からない。

ただ、このような壮絶な死を待つだけの人達に、「ビハーラ僧」ならどう向き合うのだろう?

「大きな生きる目的があれば」という妻の言葉の裏には「それがわかれば、どんな辛い苦しみ
にも耐えられる」という気持ちが痛いほど伝わってくる。

そう、人は平凡なまどろみが破られ、愕然とさせられた時、「生きる目的は何か」を真剣に問い、
解答を迫らずにおれないのだ。

その真剣な問いに、真剣に答えるのが、僧侶の仕事ではあるまいか。

浄土真宗の開祖、親鸞聖人は、誰もが究極に知りたい、その「なぜ生きる」を、あきらかに教え
られたお方である。

なのに、今日の浄土真宗の「どう役に立てるかは、まだ見えない」と、ぼやいてはばからない
僧の姿に、いかに教えが、蹂躙されているか、悲泣して立ち上がらずにおれない。

昨日も、「なぜ生きる」について詳しく聞かせて頂いた。
「臨終や終末でない、平生元気な時に、無碍の一道、絶対の幸福に生かされる、だから、
どんなに苦しくとも、この目的果たすまで生き抜きなさいよ」とはっきり教えられた親鸞聖人。

この真実知らされた者は、猛烈に伝えずにおれないし、なんとしてもお伝えしなければならない。
懈怠を猛省し、同志とともに奮起したい☆
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