ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔江戸の古町へ〕(6) 【江戸城 三十六見附を歩く】 鈴木 謙一 わらび書房

2010年05月08日 | 〔江戸の古町へ〕

【江戸城 三十六見附を歩く】 鈴木 謙一 わらび書房

● 渦巻きのサザエにも似た江戸の堀
周囲15キロの江戸城郭の堀の配置はさながらサザエにも似た渦巻き状であるそうだ。
家康の入府以来、70年近い歳月をかけた江戸城の修築に沿って江戸城下は発展した。
それに伴い内堀、外堀も渦巻きのように形を変えた。
本丸、二の丸、三の丸の外に堀がありその近くには譜代大名が詰める。西の丸堀外や、内堀外には外様、旗本、御家人屋敷の甍が並ぶ。
神田・日本橋界隈には町屋ができる。
隅田川もこの江戸城外堀の役割を担った。

● 網の目の水路は運河に利用され
土木資材、食糧、燃料のすべてを消費する江戸の町は、大坂などからそれを供給しなければならない。
そのため水運、船運はとても大切だった。
荒川、多摩川、利根川が使われ、海路から江戸湊へ荷が着けば、そこから府内までは堀を通じた水路が使われた。

● 見附とは堀に面した城の門
「○○ちゃん ミッケタあ~」というのが、我々の子供時分のかくれんぼのあいさつ言葉だった。
ミツケタ~、は見つけるの訛りと思うが、見張りをするところから生まれているらしい。
江戸城三十六見附とはそういうところだ。
見附の共通しているところは、堀に橋があり、石垣に囲まれた堅牢な枡形門があり、渡櫓があって敵への見張り所がある。
徳川長期政権が確立することでいずこのミッケタあ~、も無用な石垣となってゆくのだが・・・
著者によれば 隅田川に近い外堀から渦巻状になっている見付は  


1浅草橋門 2筋違門橋 3小石川門 4牛込見附 5市谷見附   
6四谷見附 7食違門 8赤坂見附 9虎ノ門 10幸橋門
11山下橋門 12数寄屋橋門 13鍛冶橋門 14呉服橋門 15常盤橋門   
16神田橋門 17一ツ橋門 18雉子橋門 19竹橋門 20清水門 
21田安門   22半蔵門 23外桜田門 24日比谷門 25馬場先門 
26和田倉門   27大手門 28平川門 29北桔梗門 30西の丸大手門 
31西の丸玄関門(二重橋) 32坂下門 33内桜田門(桔梗門) 34下乗門 35中之御門 36中雀門 となっていた。


● 皇居マラソン 始点は江戸城桜田門
労組文化共済部の部長をやったことがあり、皇居1周マラソンの企画をした。
強いものが勝ってばかりでは面白くもないからタイムトライアル自己申請というのを考え、申告時間に最も近いのが最優秀者として賞品を用意した。
このレースの始点が桜田門だった。
この桜田門が江戸見附の原型を保っている。
枡形の広場があって、当時の取調べの後、横の出口から出られる仕組みだった。

いま都心の大企業の80%は水曜日をノー残業デーとしている。
大手町界隈のサラリーマンはこの日に皇居マラソンを楽しんでいる人が多いらしい。
自宅に真っ直ぐ帰る人は54%、習いごとが30%、同僚との飲み会が29%だそうだ。
このため水曜日は、皇居をジョギングで一周、帰りに一風呂浴びて汗を流す人が多いと以前のNHKニュースが報じていた。

● 独眼竜 神田山を掘り崩し
わずか1・5キロで江戸城本丸へ手がかかり陣を敷くのに手ごろな場所が神田山だった。
神田山こと本郷台地は江戸城までは、目と鼻の先であり、自衛の堀もないから江戸城攻めの王手をするには絶好の場。
深い堀を作り遮断を提言したのは伊達政宗。
普請工事を買って出た形で、仙台堀を作った。水道橋、お茶の水、神田、柳橋までの水路を指す。
この盛り上げ土でできたのが駿河台。
家康亡きあと、家臣たちが移住している。  
御茶ノ水駅付近の外堀は非常に深い。
聖橋から見下ろす神田川の谷は、仙台堀、伊達堀などとも言われ今日まで続く。

 ● 広小路 露天、水茶屋、芝居小屋
たとえば現在の上野広小路でも、裏はアメヨコだからかなりの繁華街だ。 昔の江戸広小路は火避け地として作られ人の行き来もが多く賑わっていたらしい。
ただ、その当初は、一大物干し場であったり 薬草園であったり、射撃場だったりした時期もあったとのこと。

● 神楽坂 旗本屋敷は両側に
旗本八万騎といわれたが実際には6000家ほどだったらしいとこの本にあった。
番町、麹町、旧小川町、飯田町、駿河台から牛込、駒込、巣鴨辺りに彼らは住んだ。
武張った旗本屋敷町から大正時代に花街に変ったのが神楽坂。
飯田橋駅を背にした坂の花街の路地は、母が少女時代におでん屋を手伝いに 通った所だ。

1千石以上の知行地を持っている旗本は1割ほどだった。
彼らの拝領した屋敷地のメモがあったので拾う。

300石~900石 500坪
1000~1900石 700坪
2000~2900石 1000坪
3000~4000石 1500坪
5000~7000石 1800坪
8000~9000石  2300坪

●新聞社など 小笠原家の上屋敷
有楽町マリオンから、ビックカメラの横を通り、国際フォーラム、丸ビル、新丸ビルから大手町辺りは「丸の内」界隈で、江戸の頃は大名小路と呼ばれていた。
読売新聞社や隣の大手町ビル、サンケイプラザ辺りは小倉(豊前)藩小笠原左京大夫の上屋敷だった。
小笠原は15万石の大藩だ。
ちなみに大名家の拝領分は

1万~2万石 2500坪
5万~6万石 5000坪
10万~15万 7000坪

これが、御三家の尾張徳川家61万9500石ともなると 市谷の上屋敷だけで 7万7000坪の広がりになってくる。

● 屋根瓦 六葉葵の紋も見え
御三家といえば水戸藩もそうだ。
六葉葵とは水戸徳川家の裏家紋だったそうだ。
後楽園は水戸の中屋敷としてスタートした。
現在は築地塀に囲まれた回遊式の泉水庭園として名園の名前が高い。何回かここを訪れたことがある。
後楽園とは
 「「先天下之憂而憂、後天下之仁者楽而楽(天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ)」范仲淹「岳陽桜記」 からの名。

定年が間近に迫ったとき、夫婦招待の形で会社が後楽園へ招待してくれ、これから以後の心構えなど講師を呼んでのレクチャがあり、会食、園内散策の時間もとってくれた。
人生の節目に「楽しみは後れて楽しむ」の意味もあったか。
夜の朝刊作りなど締め切り時間にそれぞれが追われ、時に鉄火場のような雰囲気にもなる社としてはイキな計らいだったと思う。





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