【江戸町人の研究】1西山 松之助編 1 吉川弘文館
70年代の前半、大学紛争が燃え盛っていたころに、この研究会は行われたという。竹内誠、今田洋三、北原進ら16名が大学の垣根を越えて毎月1~2度集まり、6年かけてその成果をまとめた。時に激論もあったという。
たいへんな労作であり、県立図書館から取り寄せてもらった。
分厚い内容から江戸初期のイメージを自分なりに汲み取ってみた。
● 霧の中 天正時期の町の顔
天正十八年(1590年)家康が、関東八州の新領主として、三河岡崎より入府、この地を江戸と改めた。
この頃は 江戸中期以後と比べると古文書などの記録も少なく、町の表情を探ることは専門家でも難しいらしい。
江戸城近くに駐屯する家臣団があり、その生活と資材を用意するため関東の中心だった小田原から諸商人、職人が多く招かれた。旅籠や薬種商、普請する大工などの工人なども。
樽屋藤左衛門、奈良屋市右衛門が江戸町年寄を命ぜられた。(御用達町人由緒)
● 江戸城は北関東の要衝地
北条期の江戸城は舟入の江戸であり、品川、日比谷はまだ海にある。 海浜埋め立て工事、江戸湊の船入りで資材を日々運搬し江戸城を造営する。
家康入府までは小田原が最も発展し、江戸城は北関東を押える要衝の地だった。
天正18年(1590)家康が江戸城に入ったときの古記録。
御城内、北ノ方ヨリ国府方ヘ此度町屋ヲ開キ、諸所ノ便利到サセ候ニ付、勝手次第其所エ移リ、商ヒ始メ候テ不苦候
この一帯は四谷、赤坂、角筈方面を指すらしい。 武家の組屋敷のなかに町屋が存在したという伝承も残っている。
● 材木町 普請大工は大もてに
木材は需要ひっきりなしで、城下完成後に御用町として材木町が誕生した。
但し、町として定着したのは、元和から寛永期にかけてのこと。
● 町人を工商人とよびかえて
江戸城造営がはじまると全国から工匠、商人が呼び寄せられ町人の集住がはじまる。
町人というより工人の匂いが強い。
商人のさざめきが聞こえるのは元禄時代からで、その頃が新旧町人の交替期だったらしい。
●国役の代りに屋敷をいただいて
草分名主、古町名主は職人を集め幕府のために使役する。
古町名主はその国役負担の代償として町屋敷を拝領し家持町人層を支配する。
● 火事で泣き 男衆ばかりの江戸の町
初期の江戸町人は男ばかりの社会。
一旗揚げ組や工人、商人は火事で泣き武家の都合で追い立てられる。
明治2年の土地調査によれば
武家地 1169万2000坪 69%
寺社地 226万1000坪 15%
町地 26万6000坪 16%
サムライ優位の地割が最期まで続いていた。
この16%の地に100万都市江戸の50万人~60万人の町民が住んでいたことになる。
町方の男女比は享保六年(1721年)では男性64.8%女性35.2%という統計がある。
● 寺社町がつぎからつぎへと誕生し
山王と神田両社、上野寛永寺、増上寺、伝通院、護国寺などの門前。
● 京、堺、商人招き町割りも
一方では京や堺の商人を招いて町割りをしたケースもあったようだ。
後藤庄三郎が御金銀改役として武蔵墨判小判金を鋳造したのは文禄4年(1595)年。
武家の需要の代償を勤め南八丁堀の沿岸辺に居住が許可された。
● 常盤橋近くにあった茶屋、風呂屋
呉服橋よりに銭亀橋というのがあったらしい。「天正19年夏の比」という時節をいれて、せんとう風呂という記録が残っている。
この年は、家康が入府した年。
千利休が自害し、秀吉の子鶴松が死に、年の瀬に豊臣秀次が関白になった年でもあった。
風呂屋の始は、御入国の始の方、諸見付御門御普請の最中、今の常盤橋付近の外へ水茶屋をしつらひたる人あり、勤番の武家方江都遊覧の始なれば、日々に多くつどひ歩行、又は丸の内の事なれば、長屋の住民の鬱を晴らさんとて、五人、三人打つれて彼茶屋へ来り、終日茶を喫て語りつ 「我衣」
だいじなことは、入府1年後に茶屋をふくめての町屋があって町民の集住も見られたという記録だ。
● 江戸城の拡張工事でできた町
日本橋傳馬役町がそのひとつ。小田原からの諸商人、職人の技量が必要だった。 「慶長見聞録」によると
「今の江戸町は、十二年以前(注 慶長八年)まて、大海原なりしを、當君の御威勢にて、南海をうめ、陸地となし、町を立給ふ。町ゆたかにさかふるといへとも、井の水へ塩さし入、万民是を歎くと聞しめし、民をあはれみ給ひ、神田明神山岸の水を、北東の町へながし、山王山本の流れを西南の町へながし、此二水を江戸町へあまねくあたへ給う」(「慶長見聞集」)
としているから現在の八重洲から有楽町、新橋などが埋立てられたと見当がつく。
ただ、この「慶長見聞録」では実証する町割材料の資料が少ないとし、信頼性に疑問もあるようだ。 ともかく慶長8年(1603)に江戸幕府が成立し江戸市街地が本格的に整えられてゆく。
● 善さんは大傳馬町町名主
入国以前より江戸下宿の問屋として代々 大傳馬町に住んでいた名主に 佐久間善八というひとがいた。
もうひとり、何冊か読んだ本で記憶にある馬込勘解由という人もここにいた。
ともに草創名主の名門だったが、善さんのほうは役を辞し郷里へ。
勘解由の方は後代まで大伝馬町を取り仕切っていた。
● 櫻田は甍の波と雲の波
外桜田は外様大名の屋敷が割り当てられた。
● 寛永の江戸図にあったすきやばし
和田倉から日比谷にかけて、また、すきやばし、かじばし、大橋の内側に孤立した町屋が見られる。
● 遊び女を抱えた護国寺、根津の町
出稼ぎ人はすべて男だから、徐々に公娼、私娼があちこちにでてきた。
江戸前期の享保8年、門前町にあった私娼窟が槍玉にあげられ強制取り払いの記録があった。
だが、古典落語にも、「惚れて通えば千里も一里 広い田ンボもひとまたぎ」とか「とめてとまらぬ色の道」ということばも残っている。
なかなか・・・。
● 大店といえど湯上り涼みのない日々が
かなりの町屋大店でも江戸期のすべてを通じ持ち湯は厳禁。
江戸は火事が多く、その失火を恐れた。
自宅に湯をもつことが許可されたのは明治30年以降だという。
最もわれわれ店子庶民の持ち風呂なんていうのも昭和30年代に入ってからではないかと記憶しているがどうだろうか。
70年代の前半、大学紛争が燃え盛っていたころに、この研究会は行われたという。竹内誠、今田洋三、北原進ら16名が大学の垣根を越えて毎月1~2度集まり、6年かけてその成果をまとめた。時に激論もあったという。
たいへんな労作であり、県立図書館から取り寄せてもらった。
分厚い内容から江戸初期のイメージを自分なりに汲み取ってみた。
● 霧の中 天正時期の町の顔
天正十八年(1590年)家康が、関東八州の新領主として、三河岡崎より入府、この地を江戸と改めた。
この頃は 江戸中期以後と比べると古文書などの記録も少なく、町の表情を探ることは専門家でも難しいらしい。
江戸城近くに駐屯する家臣団があり、その生活と資材を用意するため関東の中心だった小田原から諸商人、職人が多く招かれた。旅籠や薬種商、普請する大工などの工人なども。
樽屋藤左衛門、奈良屋市右衛門が江戸町年寄を命ぜられた。(御用達町人由緒)
● 江戸城は北関東の要衝地
北条期の江戸城は舟入の江戸であり、品川、日比谷はまだ海にある。 海浜埋め立て工事、江戸湊の船入りで資材を日々運搬し江戸城を造営する。
家康入府までは小田原が最も発展し、江戸城は北関東を押える要衝の地だった。
天正18年(1590)家康が江戸城に入ったときの古記録。
御城内、北ノ方ヨリ国府方ヘ此度町屋ヲ開キ、諸所ノ便利到サセ候ニ付、勝手次第其所エ移リ、商ヒ始メ候テ不苦候
この一帯は四谷、赤坂、角筈方面を指すらしい。 武家の組屋敷のなかに町屋が存在したという伝承も残っている。
● 材木町 普請大工は大もてに
木材は需要ひっきりなしで、城下完成後に御用町として材木町が誕生した。
但し、町として定着したのは、元和から寛永期にかけてのこと。
● 町人を工商人とよびかえて
江戸城造営がはじまると全国から工匠、商人が呼び寄せられ町人の集住がはじまる。
町人というより工人の匂いが強い。
商人のさざめきが聞こえるのは元禄時代からで、その頃が新旧町人の交替期だったらしい。
●国役の代りに屋敷をいただいて
草分名主、古町名主は職人を集め幕府のために使役する。
古町名主はその国役負担の代償として町屋敷を拝領し家持町人層を支配する。
● 火事で泣き 男衆ばかりの江戸の町
初期の江戸町人は男ばかりの社会。
一旗揚げ組や工人、商人は火事で泣き武家の都合で追い立てられる。
明治2年の土地調査によれば
武家地 1169万2000坪 69%
寺社地 226万1000坪 15%
町地 26万6000坪 16%
サムライ優位の地割が最期まで続いていた。
この16%の地に100万都市江戸の50万人~60万人の町民が住んでいたことになる。
町方の男女比は享保六年(1721年)では男性64.8%女性35.2%という統計がある。
● 寺社町がつぎからつぎへと誕生し
山王と神田両社、上野寛永寺、増上寺、伝通院、護国寺などの門前。
● 京、堺、商人招き町割りも
一方では京や堺の商人を招いて町割りをしたケースもあったようだ。
後藤庄三郎が御金銀改役として武蔵墨判小判金を鋳造したのは文禄4年(1595)年。
武家の需要の代償を勤め南八丁堀の沿岸辺に居住が許可された。
● 常盤橋近くにあった茶屋、風呂屋
呉服橋よりに銭亀橋というのがあったらしい。「天正19年夏の比」という時節をいれて、せんとう風呂という記録が残っている。
この年は、家康が入府した年。
千利休が自害し、秀吉の子鶴松が死に、年の瀬に豊臣秀次が関白になった年でもあった。
風呂屋の始は、御入国の始の方、諸見付御門御普請の最中、今の常盤橋付近の外へ水茶屋をしつらひたる人あり、勤番の武家方江都遊覧の始なれば、日々に多くつどひ歩行、又は丸の内の事なれば、長屋の住民の鬱を晴らさんとて、五人、三人打つれて彼茶屋へ来り、終日茶を喫て語りつ 「我衣」
だいじなことは、入府1年後に茶屋をふくめての町屋があって町民の集住も見られたという記録だ。
● 江戸城の拡張工事でできた町
日本橋傳馬役町がそのひとつ。小田原からの諸商人、職人の技量が必要だった。 「慶長見聞録」によると
「今の江戸町は、十二年以前(注 慶長八年)まて、大海原なりしを、當君の御威勢にて、南海をうめ、陸地となし、町を立給ふ。町ゆたかにさかふるといへとも、井の水へ塩さし入、万民是を歎くと聞しめし、民をあはれみ給ひ、神田明神山岸の水を、北東の町へながし、山王山本の流れを西南の町へながし、此二水を江戸町へあまねくあたへ給う」(「慶長見聞集」)
としているから現在の八重洲から有楽町、新橋などが埋立てられたと見当がつく。
ただ、この「慶長見聞録」では実証する町割材料の資料が少ないとし、信頼性に疑問もあるようだ。 ともかく慶長8年(1603)に江戸幕府が成立し江戸市街地が本格的に整えられてゆく。
● 善さんは大傳馬町町名主
入国以前より江戸下宿の問屋として代々 大傳馬町に住んでいた名主に 佐久間善八というひとがいた。
もうひとり、何冊か読んだ本で記憶にある馬込勘解由という人もここにいた。
ともに草創名主の名門だったが、善さんのほうは役を辞し郷里へ。
勘解由の方は後代まで大伝馬町を取り仕切っていた。
● 櫻田は甍の波と雲の波
外桜田は外様大名の屋敷が割り当てられた。
● 寛永の江戸図にあったすきやばし
和田倉から日比谷にかけて、また、すきやばし、かじばし、大橋の内側に孤立した町屋が見られる。
● 遊び女を抱えた護国寺、根津の町
出稼ぎ人はすべて男だから、徐々に公娼、私娼があちこちにでてきた。
江戸前期の享保8年、門前町にあった私娼窟が槍玉にあげられ強制取り払いの記録があった。
だが、古典落語にも、「惚れて通えば千里も一里 広い田ンボもひとまたぎ」とか「とめてとまらぬ色の道」ということばも残っている。
なかなか・・・。
● 大店といえど湯上り涼みのない日々が
かなりの町屋大店でも江戸期のすべてを通じ持ち湯は厳禁。
江戸は火事が多く、その失火を恐れた。
自宅に湯をもつことが許可されたのは明治30年以降だという。
最もわれわれ店子庶民の持ち風呂なんていうのも昭和30年代に入ってからではないかと記憶しているがどうだろうか。
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