ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔身辺雑話〕チュンスケと野鳥の会

2006年05月14日 | 身辺雑話
 朝、雨戸を開けてつぎのガラス戸を開けると、ウッドデッキの向こうの庭に彼らがさっとやってくる。
 芝のあっちこっちを飛び回って餌をねだる。
雀のチュンスケとチュンコだ。
もっとも、どっちがオスのチュンスケでどっちがお嬢だかいまでもわからないが、まず決まってペアでやってくるので呼びかける名前とした。
 古々米のゲンマイがあるので半握りにつかんで庭にまくと、ペアは、ついばみを開始する。
まもなく、チュンスケの仲間が増えあちこちで彼らの朝食がはじまる。晩秋の頃からはじめたコメまきジジイと村スズメの対話だが、いつのまにかルールもできた。
人間界との結界は5メートルまでとする。
互いにその領分を侵犯しないこと。
でもチュンスケは時にデッキの丸帽子の柵までやってきて、餌をねだることもある。
 彼らは朝食が終わると垣根を越え、道路を越え、水田を越えた向こうの農家屋根まで一直線に飛んで行く。
 リンゴの皮や軸を細かく切って庭の小池淵の石畳に並べるとすぐムクドリたちがやってくる。
先有権をめぐって、喧嘩をしながらの朝食だが、よく群れる連中でもある。水浴をすることもある。
ヒヨドリも時に来るが、必ず啄ばんでいるチュンスケたちの頭の上をサアーッと飛んで脅かしてどけてしまう意地の悪さもある。
だがヒヨドリより小さなジョウビタキにはまずこのサアーッをやったことがない。
はるばる露国方面からやって来た渡り鳥に敬意を払うのかなぜか恐れている様子だ。
このジョウビタキは彼の地では人家に慣れて育っているのだろうか意外に人見知りをしない。
畑で耕していると必ずやってきて掘り返された跡をつついている。虫をみつけているのだ。  

犬の密閉餌箱をひっくり返してその餌を盗むのはいつもカラス。
両端にホールド型の蓋留めがついているのにガタッ、ゴトッと音をさせてこじあける。
「コラッ!」の私の声に驚かず、電柱か電線に止まってから、悠然とこちらを見下ろして、それからどこかへと飛んでゆく。
この餌箱を犬小屋のすぐ隣りに置いてみても、あきれたことにカラスはまだ狙う。
番犬とカラスの出来レースなのだ。
犬のほうは好い餌を求めて食べ残しを整理してくれるカラスを歓迎している様子がある。この関係、ワニとワニドリに似ている。
カラスのカー公は、情よりも憎さがつのる憎いヤツだ。
だが、田んぼに耕運機が入るとその跡を4、5羽のカラスがついてゆく。
「ゴンベが種まきゃカラスがほじくる」の唄があるが、あれはタネよりもほじくり返された田土の虫が欲しかったのではないかと考えて見たが、どうだろうか。
だが敵は「いらぬお世話よ、カラスのカッテでしょ」と電線からうそぶいている感じも受ける。
 冬から早春の庭には稀に背黒セキレイやツグミ、県鳥のシラコバトもやってきた。

 野鳥に関心を持ったきっかけは、新聞社に勤めていたときに社内に「野鳥の会」というのがあって誘われたからだ。
 記者OBの人たちが多かったが、どこかストイックな雰囲気で真面目すぎて初回参加した横川のバスツアーで以後敬遠しようと思った。
だが、その「真面目さ」を少し変えるために酒のもたらす和が必要で、だから君が、さらに必要なんだと妙な理屈をこねる先輩の説得があって以後、「野鳥の会」の会員となったが、結局は楽しい人生を送れた。  なかでも、年に数回、登山探鳥会という企画があって、会員の中の山好き派が集まり上高地や八ヶ岳、雲鳥山、ブッポウソウのいる大滝村・両神山などをめぐって登山と探鳥を楽しんだ。
 多忙なW社長も鳥が好きで休日に庭にやってくる野鳥を撮る。
社長にその写真術を指導したのがエベレストをはじめ世界の山々を踏破した元写真部で我が飲み友達のKさん。
その写真が社内喫茶部の壁面を使っての展覧会で署名入りで飾られた。
もっとも野鳥の会の写真展のなかに一緒に飾ってあったのだが、社員も写真下のWTという名前を見て「なんだか社長と似てる名前だな」くらいで社長とは気づかない。
また飾った野鳥の会幹事も良識派だから社長とて、太書きにするような野暮なことはしない。
社長も喫茶部にやってきて、満足気に作品展を見ていたが、こういったザックラバランとした社内空気が小生は好きだった。

 同じ「野鳥の会」でも文芸春秋の「会」は飲むことと、見ることとでは先者を優先していた。
昔、 両社の合同探鳥会などを泊まりこみでやったことがあったが、雨でも出かけるのが我が社の探鳥会気風で、朝から酒盛りとなるのが文春側だった。  
軽井沢に社員寮があり、のちに社長になった安藤さんもメンバーとして駆けつけ、野鳥談義に遅くまで付き合った。
時々、活字と紙面では叩きあいもする両社の社長がそろって鳥派の人間だったことを思い出す。  

 ネジリ花やトンボや谷津干潟の水鳥の写真で紙面を飾り、写真部に動植物写真にこの人ありと言われたMさんはご両親の関係で奈良へ隠棲。週休には必ず高尾山に登って脚を鍛えていた我が山の師匠のHさんはいまハワイに定住し観光通訳ボランティアとなった。
会発足から一貫して会長だったのは名コラムニストのMさん。
激職にあったが少人数の探鳥会にも時間があれば、必ず姿を見せていた。
 野鳥の会のOBも多くなり会の歴史の幕は閉じられた。

 


伊豆沼で雁を見るバスツアーの幹事になったことがあり、何千何百という雁が夕闇迫る空から水面におりてきた様子に、なぜか涙があふれてきたことを思い出す。
あの涙はなんだっのだろう。
野鳥の会は解散したが年初の明治神宮には集まって、それぞれの探鳥情報を交換することになっている。
その鳥あわせ後の新年会が今から楽しみだ。

写真
チュンスケが来る庭。
豆三輪車はマゴの遊び道具で、その前のほうに毎朝、かれらはやってくる。


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