ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔読後のひとりごと〕【談志の迷宮 志ん朝の闇】立川 末広 夏目書房 

2006年05月11日 | 2006 読後のひとりごと
【談志の迷宮 志ん朝の闇】立川 末広 夏目書房 
 読んでいたら談志が志ん朝の芸に触れたところがあった。

 「古今亭志ん朝が「船徳」で”船を舫ってある」ってのが客が判らないっていうんで変えた。
理由(それ)は落語を聴く者に判らせたいのだろうが、たとえ”判らなくてもいい”。それを当人の芸で解決すればそれでいい。それが”判る”ということになるのです。
まず「舫う」という言葉がとってもいい言葉だと思ったら、それを観客に判らせることが芸人の一つの力量であるわけです。
 私は、判らせます。」
                「童謡噺」立川談志 くもん出版

談志から志ん朝へのこの指摘はあたっている。
私も少年時代に文楽の「船徳」を聞いていて、客が俄か船頭の徳さんに「まだ舫ってあるじゃないか」の「舫う」とは一瞬意味が飲み込めなかった。だが、話の流れで「あ、そうか舟がまだ縄で繋がれているんだ」理解できた。
「舫う」って粋なことばがあるもんだとも思った。
 志ん朝の古典落語には客へのサービスが過ぎて、言葉の言い換えがままあると聞いていたが、そうなら少し残念。
「火事息子」でも勘当された若旦那の「彫り物」を「入れ墨」と言い換えたところに作者はやはり不満の意を表している。
 志ん朝も談志も何回か演じた「火事息子」には決定打がなかったようだ。
この「火事息子」はやはり円生のものがいい。

 「たいそう、(体に)綺麗に絵を書きましたね。わたしどもにあなたがおいでの時分はそんな絵なんぞは書いてあげなかった。身体髪膚父母に受け、あえて毀傷せざるは孝の始めとす、ぐらいはわたしゃお前さんに教えてあるつもりだ」(三遊亭円生)

 親子の再会での父親の叱言だが一つの啖呵に近いものの言い様があって、凛とした風を守ろうとする昔の親父の心意気が感じられる。円生はそこをうまく語っていた。
 いまの親父じゃこうはいかぬ。
もっとも親父が言う前に母親が息子をかばって親父を叱っている。

■■
 「三木助が芝浜のマクラを完成したのは昭和29年のことだが、当時三木助はネタおろしの前に、必ず安藤鶴夫の前で演じていた。」と文中にあった。
 安藤鶴夫と小生の父光男とのことは昭和家庭史のほうに書いたが、なぜか大晦日か晦日になると床屋の我が家ではラジオから流れてくる三木助の「芝浜」を聞いた。
大掃除で掃き清めた家で「芝浜」を聞いていると、すぐそこまで来ている正月が感じられた。
父の光男も「三木助はうまいね」と感じ入ったように母に言っていたことをふと思い出す。
後年、何度も三木助の芝浜のマクラをテープで聞いたが、隅田川の春の船上風景が芸に仕上がって目に浮かんだ。
 この「芝浜」を談志が語った。聞いたが、おもしろくなかった。
芝浜に登場する談志の女房の描き方に強い違和感をおぼえたのは小生だけではなかったことをこの本で知った。
 作者は
 「女房がウソをついていたと告白するシーン、「女房にだまされてさぞ悔しいでしょう。ぶってもいい、蹴ってもいい」という台詞は多くの演者の<芝浜>にもある。そのあと、談志の女房は感情が滾るがごとく涙ながらに懇願するのである。 「でも、別れないで。だって、あたし、お前さんが好きなんだもの」

「談志が芝浜の女房が賢夫人であることを壊して可愛い女を造型しようとしているが、「わたしには、それが安キャバレーのホステスのように思えてしようがない」

と感想をのべている。
 同感である。小生もこの女房に濃い目の化粧たっぷりの嫌な女を感じて、以後、談志の「芝浜」だけは、嫌いになった。
志ん朝のは聞いたことがないからわからない。
やはり、「芝浜」は三木助の独壇場で、魚勝とカミさんの師走のやりとりは孤高の技だったのではあるまいか。


■■
「文七元結」「富久」「傘碁」「付き馬」と来て談志と志ん朝の二人が試さなかった「試し酒」がとりあげられる。
「宮戸川」「鰻の幇間」「垂乳根」から「火事息子」おおとりに「芝浜」の結び解説がある。
それぞれの演目に文楽が志ん生がどう絡んだか、そして談志と志ん朝がどう演じたかを当時の寄席での空気をふくめて作者は、みごとに比較解説してくれた。
 だが読者への熱い語りの割にはこの題名の「談志の迷宮 志ん朝の闇」という意味が最後までつかめなかった。
 私はひとくちに言えば「マクラの談志、リズムの志ん朝」と思ってきたし、今でもそう思っているから談志が「迷宮」で志ん朝が「闇」というのはどうしても腑に落ちない。
あの談志が「迷宮」と言われるのはさぞ「迷惑」だろうし、芸風明るい志ん朝が「闇」とされたのでは、黄泉に行っていてもたまったものではあるまい。


 ■■ あとがきで作者は
「いっぽうに談志が屹立し、もう一方に志ん朝が対峙する。そんな構図があったからこそ、わたしをこれほど落語に熱中させてくれたのである。」
と語った。思えば、たしかにいい時代だった。過去形はいけないか。
「志ん生の落語が聴けただけで人生はしあわせだった」
と小沢昭一がどこかで言っていたが、志ん朝と談志がライバルとなってたしかな落語を聞かせてくれて、志ん生、文楽、円生の円熟時代をみごとにつないでくれた。
その志ん朝が2001年10月に63歳で亡くなった。
肝臓がんだったと当時の新聞は伝えている。
ショックだった。
当時、志ん朝は具合が悪かったらしく談志が心配して「どうなの」と電話で聞くと志ん朝は「糖尿で痩せていまジョギング」と答えていたと本書で紹介されているが、志ん朝には余病が多かったのだと思う。
それでいて、明るい艶のある芸風をくずすことはなかった。
一方の談志は昨05年のホームページで

「家元予定では今年が死ぬ年であります。
そんな気配は充分あります。
曰ク、肝硬変の糖尿の加えて叉ぞろ食道ガンの復活で六月に手術ときたもンだ。
肩ぁ痛ぇし、淋病は治らねぇし、チン○○は…と半分ネタだが、前の三つは本当のことだ。
人生成り生き、勝手にしやがれ。もし今年生きてたら、後二年生きてみる。
家元人生二年計画で生きているのであります。
家元ガンバレー。」

と語っている。
 だが闘病の壮絶さを毒舌の笑いにかえて今月30日、家元談志と志の輔の親子会がはじめて新橋演舞場で開かれるとのニュースを新聞で読んだ。
これが第一回目となるが、どうか元気で長生きして、親子会を続けてください。
談志師匠、お願いしますよ。
てやんでえ、俺の勝手だなどといわずに。


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