ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔読後の独語〕 【伊勢詣と江戸の旅】 道中日記に見る旅に値段 金森 敦子 文春新書  

2007年10月22日 | 2007 読後の独語
【伊勢詣と江戸の旅】--道中日記に見る旅に値段--
                                               金森 敦子 文春新書

リタイア後、近県の栃木や群馬の温泉地付近の神社で「富士講」とか「伊勢講」という苔むした石碑を見かけることがある。
これらは今住んでいる杉戸の小さな神社にもある。
それぞれの村から伊勢まで大きな旅をして、故郷に戻った時の記念碑として作られたらしい。
 60年ごとにブームを呼んだといわれる伊勢参りとは一体どんな旅だったのか。
各地の村から10日余をかけて神域伊勢にたどり着くと旅の疲れは一変することをこの本で知った。
 伊勢へ到着する。
 まず風呂に入って月代(サカヤキ)を剃る。
 その夜は温かい絹蒲団にくるまる。
 その日からの移動はすべて駕篭を使って、歩く事はあまりない。
 宿泊の御師宅の食事は日々山海の珍味攻めとなり、三食とも酒と引き物まで出てくる。
 朝の食に酒がつくのだ。しかも三晩とも大きな鯛が膳に乗っている。
 絢爛と夢のような伊勢旅宿の日々だ。
 それでいて伊勢までの道中は、万事質素でつつましいものだ。
 今なら、江戸から伊勢までは「のぞみ」で2時間15分だが、当時は12泊13日を充てた。

 文政12(1829年)先代正蔵の演じた「中村仲蔵」では
 「広い世間にたった一人、俺の芸をわかってくれた人がいる。このことを女房に置き土産して、旅に出ても遅くはねえ」と、ほろりとさせるセリフを吐き、続けて「「京まで百二十里なれば十二日の道中として一日に一朱当てねば」と胸算用をしている。
 江戸時代の貨幣は、四進法だから一両は四分、一分は四朱となる。 一両とは今の円換算で6万円、一分は4分の1だから1万5000円相当、一朱は3750円となる計算と本書にあった。
 伊勢詣りまでの旅籠宿の値段は1847年(弘化4年)では1530円、東海道中膝栗毛(1802年(享和2年)から1822年(文政5年)にかけて出版)から60年後の旅籠代は200文(1800円)で、まさに倹約、倹約の旅だ。
 長い道中は、時には酒手を強要する悪い船頭、馬子などにもびくびくして気楽に旅をしているだけではないらしい。
 新発田藩などでは、伊勢詣りは願書許可休暇制の形をとり「何日から何月まで」で「何か月間に限って聞き届ける 依って免許状 件の如し」としている。
 このあたり、嘘の忌引きでオジさんオバさん10人ほどを勝手に”殺し”て服喪休暇を使っていた平成時代の京都の消防署職員の話とはまるで違う。
 全国から伊勢志願をする農民はなぜ伊勢を目指しそれでいてゴージャスな旅ができたのか。
 ある時には稗や粟で食をつないだこともあったろう筈の農民がなぜ絹に包まる伊勢の旅ができたのか。
 ここで注目されるのは御子(オシ)と呼ばれた伊勢神宮の下級神官だ。 かれらの仕事は伊勢詣り一行の宿泊、案内を業としながら、各地方を廻って檀家に御祓、伊勢暦の農事暦、土産物を配り初穂料を頂き、また伊勢参拝を上手に勧誘した。
 御祓札を「大麻」と称したと本書にあったがなんとなく「麻薬」を連想させた。(宗教はアヘンという古いことばもつい浮かんだ)

檀家の数と言っても半端なものではない。
 全国の大名がほとんど檀家なのだから下々まで含めて最盛期は総檀家数458万5678軒(1671年)とあった。
旅人を迎える御師宅は同年で391軒とある。総床面積800坪、総面積1800坪の御師の建物が待っている。
 御師たちは、伊勢の神域を中心に全国を蜘蛛の巣状に結んだネットワークをこの作っていたともいえる。
 彼らは地方に出かけ、農、工、商の各層に伊勢詣りを勧誘した腕利きの営業マンで 農民には積み立てを勧誘、「講」も進めた。
誘われたほうの農民も一生に一度の伊勢詣りであり、それは神様への積み立て金なのだから優先して貯蓄に励み、それには10年余の歳月をかけた。
 伊勢に着いてみれば、御師宅で果報者として扱われるが、もともと神楽奉納金名目で渡した金だから、世話をしてくれる御師がありがたくとても良い人にも思えてくる。
事実良い人だったらしく、勝海舟の親父の小吉が道中無一文となって抜け詣り(伊勢詣り)をした折にもこの乞食少年に「腹いっぱい」食べさせ、蚊帳や夜具までを与えてくれる(「夢酔独言」)人だ。余裕があるのだ。

 正月から4月半ばは今も昔も農閑期だ。 
 ものがわかった先達さんがいて伊勢行を取り仕切る。
右を見ても左をみても顔見知りがいて喋る言葉もふるさと訛りだから安心だ。海外旅行で日本の団体旅行が揶揄される原風景をここに見たような気がした。
 10年貯め続けた金で、不要な荷を京の宿に送って奈良見物まで楽しんだ様子も著書には描かれていた。
 著者は1946年生まれ。
「道中日記」や膨大な各史料を元にその費用を調べ伊勢詣りを紹介してくれて大変面白かった。
                      (2007年10月21日 記)


 ■■ジッタン・メモ■■
本文中、たびたび引用された資料の内、清河八郎「西遊草」、「泉光院旅日記」などは読んだ事があるので備忘とする。

 西遊草 清河八郎 岩波文庫 
 八郎が生まれた村落は月山からの川と最上川の合流地点の清川村。
 1830年生まれ。生家は富豪、造り酒屋。
18歳で出奔、朱子学を極め、千葉周作の門を叩く。
蝦夷から長崎まで遊学。
25歳で一旦帰省、西遊草の親子旅行となる。
 清河の母は40。
母を連れて善光寺から奈良方面までの旅をする。
 ガラの悪い桑名の船頭などの描写は落語の様で面白い。
 秀吉、清正の史跡が、徳川権力へ遠慮して逼塞している様子などもあった。
 幕末の街道、宿場、行事・風俗が活写され興味ひとしお。 
八郎は母と北越、善光寺、 伊勢から京都、大阪、讃岐、厳島などを7か月を使って旅をし記録した。
 文章も巧い。
 後に暗殺されたが巷間伝わる謀士の印象派はこの著作にはない。享年34歳。
< メモ>
 姫路赤穂で一杯20文の砂糖水に憤慨。
 大丸は享保2年(1717)京都で創業。 大阪、京の物価に触れて  京都は人情弁ネイの地だから、商いもの懸値段多く正札あてにならず  瀬戸物は清水焼き以外は大阪で ただし小店は駄目  うなぎは誠によろしからず 高値で江戸の倍 食べ物はやはり江戸

156 灘は伊丹にも劣らぬ酒家の多き所にて、是より生田辺まで三里ばかりの所、浜辺に連なり、酒庫(さかぐら)など見事なり。直ちに浜辺なれば、舟通路もよろしく、都合万事備わりたる所なり。

175 巻の5    丸亀→金比羅→善通寺→竹原→音戸瀬戸→宮島→岩国→牛窓→高砂→明石→兵庫    →布引きの滝→西宮→大阪 善通寺は弘法大師の誕生の地 宮は誉むべきほどの結構にあらず

瀬戸内洋上の描写秀逸 (25歳の青年の筆とは思えぬ)
  およそ海路にて島の多き事天下第一の名勝にして、島にいづれも村々あり、田畑あり、大小まじりて山々浦々の景、或は岩石そびえ、或は松樹老い茂り、堂搭寺宇処々にそばたち、いづれも呼声のとどかぬ島もなく、其間海水蒼々として波欄静かにして、さながら鏡中に異ならず。白帆の往還又釣舟、網舟落々として海上にみち、風光舟の行方にしたがい種々の変化をなし、誠に奇絶の舟行なり。


八郎、宮島に母をいざない三杯の盃を重ねる 回廊に清正、又衛兵の落書きあるを法華宗の愚物が削ると憤慨

 京都の祭り 江戸辺とはちがい祭礼なれど酒宴の家も見えず。
201 錦帯橋描写
400 家康没 1616年 久能山に葬る 静岡東方の丘陵
419 鎌倉 鶴岡八幡描写
428 品川遊郭の朝日を愛でる
434 八朔の白無垢など描写
437 大名屋敷街など描写
440 神田明神から本郷、飛鳥山まで足をのばす
(1995年 12月20日 記)

 【泉光院 江戸旅日記】石川 大輔 講談社 
 泉光院は宮崎県佐古原の山伏寺住職。
6年2か月をかけて日本中を行脚。
脚を踏み入れなかった県は青森、岩手、秋田、徳島、高知だけとある。
 歩いた距離は地球の半周に及ぶ。  
56歳で出発、山道を1日で60キロ歩くこともあったという健脚ぶり。  乞食托鉢の日々を送りながら1日も欠かさず「日本九峰修行日記」を 綴る。
 未公開を心がけていたから権力への批判をはじめ各地の風俗、民情を達者な文で描かれている。
 泉光院は島津家から二七石の禄をもらい、僧侶ながら武家でもあり1800坪の寺を持つ。八〇歳で没。読みごたえがあった。
                (1997年 2月11日 記)  


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