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★ Tのゆるゆる日記 ★ 

人生どこへ向かうのか?
目に見えないものを知りたい。

合わないもの

2020-12-06 | 体験やイメージ

昨日、知り合いの人の家に寄った帰りに

突然とても気持ち悪くなってしまった。

 

車に酔ったのか…?

本当にぐったりして頭もクラクラする感じだった。

とりあえず、何も食べていなかったので

冷蔵庫にある残り物を少し食べて横になっていたけれど

一向に良くなる気配もなく9時ごろには

ベットになだれ込んだ状態だった。

 

夜中に目が覚めて急に思い出したのは

寄った人の家に沢山のアート作品があり

その中の一つが見たときに嫌な感じがあったこと。

それが原因じゃないかと気になった。

 

木彫りのお面や彫刻や絵など沢山あって

まだまだ沢山別の部屋にも保管してあるそうだ。

 

アートなどの作品は気をつけないといけない。

色々な土着の作品も

どのようなルートで手に入れているのか

どんなことに使われているのか知って手にしているのか。

 

家におくべきでないものもある。

 

 

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ヒプノセラピーの記憶

2020-09-22 | 体験やイメージ

世の中には神秘的な遺産が沢山ある。

何処もなかなか大変そうな場所にあるので気軽に行けないから

いつか機会があったら行ってみたい。

 

その中の一つにはティオティワカンもあるのだけれど

先日モヘンジョダロを見たとき

何故か「ここにいたことがある」と瞬時に感じた。

 

ただ生活していたように感じるのだけれど

特に細かなことは感じないので

そのままにしていた。

翌日の明け方、スッキリと目が覚めてしまったのだけれど

ハッと何年も前に受けたヒプノセラピーの一つを思い出した。

今までにヒプノセラピーは数回受けたことがある。

 

私はまだ小さな子供で、

綿だか麻のような素朴な白っぽいワンピースを着た

4、5歳くらいの女の子。

そこは全て焼け焦げた後のような何もない場所。

でも、火事の後ではないのがわかる。

霧でもない。

空も周りも白っぽい灰色のような状態で

森だったような場所なのに木々はただ真っ黒な折れたような幹が

所々に立っているだけで死んだ木だ。

そこには何の生気も無く

何も生き物もなく

空気も木も全てのものが死んでいるようだった。

何も色がない。

 

そこから少し歩いたところに

壊れそうな小さな小屋があって

そこに住むおばあさんが私を家によんだ。

おばあさんと私だけしかいない。

 

私には両親がいて、仕事だか買い出しだかで二人とも街に行ったようだ。

いつもと同じ、お喋りをを楽しんで笑顔で手を振っていた。

「ここで待っていてね」と笑顔でお母さんが振り返って言っていた。

そこの街はとても豊かで栄えていたように感じる。

 

だから私はそこでずっと二人が帰ってくるのを待っている。

何年も何年もずっと待ってるけれど誰も何もいない。

でも待っていないと、お母さんが帰ってきたときに

心配するだろうから待っている。

 

ある日おばあさんが通り、うちで待っていればいいと言った。

「ここにいなかったら、あなたを探して

必ずうちの前を通るから家で待っていても会えるわよ」

と言ったので初めは拒んでいた私も納得して家に行った。

私は全く喋らなくなっていた。

おばあさんも子どもたちや家族を無くして喋らなくなっていた。

二人ともただ一緒に暮らした。

 

小屋の窓からも

立っている黒い木々の残骸と

灰で覆われたような灰色の景色がただ広がっているのが見える。

他の色は何もない。

 

ヒプノセラピーで、そんな一つを見たのを思い出した。

よく聞くような何をしたとか、何もなく

ただ色のないところで一人で待っているだけのイメージ。

 

後から私が見たあの景色は核の後だと思っていた…

でも、それが何の意味があるのかわからないし

特に意味づけする必要もないし

そんな景色、核を使うなんて日本以外歴史上無いだろうし、

私の想像で作り出したのかなぁ

変なイメージ、くらいにしか記憶になかった。

 

他のヒプノセラピーでの記憶の方が強烈だったこともあるし

例え、記憶の一部であったとしても過去は単に過去に過ぎない。

 

でも、おかしな話だけれど

あそこの遺跡は関係があったのかもしれない。

無いのかもしれない。

 

そんな事を感じた日でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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知識と知恵

2019-08-07 | 体験やイメージ


知識とは何だろう…



知識は人を見下すためのものでもなければ
自慢するものでもないと思う。


どんなに知識があっても
それを有意義に使わないのなら無いと同じ。


知識ばかり増やして一向に知恵をつけないものも多い。


未だに大学名で人を計る部分もあるし
更には学部でも計る。

それは周りもそうであるとも言えるから
仕方ないのかもしれないけれど…


これからは、知恵を持つことが重要になる時代だと思う。


知識がなくても
それぞれに必要ならば体験から得られていく。

単に知識を増やすことに時間を費やすより
必要なものに対し活かしていくために、
必要なものに時間を費やすのではないか…

体験、知識、知恵のバランスがあり
その人と成りとなる。


それぞれの分野をつくっていく。


そう思うと、やっぱり
いつの日か等価交換のような時代が可能となる。


今とは人を評価する対象も感覚も変わっていく。










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何かが教えてくれること

2019-04-16 | 体験やイメージ


先日、不思議な事があった。



相変わらずワチャワチャ忙しくしていたとき
何か目の端に入ってくるので何だろうと思ってみると
左肩辺りにフワフワっと羽根?のような、
綿や煙りのようなものが二つ続けて飛んでいた。

あっという間にだったので「え?」っと思った時には見失ったのですが、
その瞬間なぜか至高の感情が湧き出てドッと涙が出そうになった。

全て一瞬の出来事だった。

ただ、周りに人がいたこともあって
何とか溢れそうな涙を慌てて堪えた。



でも、その感情は何⁈

感激とも感謝とも言えるような
全てが開かれ「ああ、光がここに!」と気づいたような
何か大きなものと繋がっていることを見せてくれたような…
とにかく、それを言葉で表すのは足りないのですが
一瞬で笑顔と涙が出てしまうような
思考は完全に消え自分の心が全て開いて溶けるような感じ。


本当に全てが一瞬。


前から書いている通り
何か解るときや気づくときも一瞬なように
この感激も一瞬の出来事。

だからと言って、大袈裟なことでもなく
特別なことでもなく継続し続けることもない。



生きるという事は、この世にもしっかり地に足をつけなくてはいけない。

そのためにバランスが必要な事で、
そうし続けることも難しくもある。


綺麗事だけでも生きていけないし
世俗的になり過ぎて人間の欲望ばかりに偏っても穏やかさは得られない。


生きていく強さ、
共存させて貰っているという感謝と
人間に与えられている知恵を使うこと。

自分の生き方、生きざまは
どの様で在りたいのかを考えることが必要だ。







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夢から反省する

2018-01-14 | 体験やイメージ


昨夜は色々な夢を見ていたのですが
一つはとてもリアルで薄っすらと目が覚めた時に考えさせられた。




多くの人は無知なために現実と想像の溝が深いまま行動してしまう。


自分が想像したり思っているよりもはるかに
現実は衝撃があるもの。


人の不幸や悲しみが実際自分に起こったら・・・

その何倍も違う感情があるかもしれない。




経験していないことを想像しても
綺麗ごとになってしまう人が多いのはその溝のせい。


その溝が浅ければ、経験していなくても
しっかり想像できるので現実に活かせるのでしょう。




無意識に行動したり選択したりしていることが
どんなに多いのだろう・・・



些細なことから自分も、周りの人も傷つけてしまうこともある。



意識して行動することを忘れないように。



そんなことを思い出させる夢でした。

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変なイメージが伝えたこと

2018-01-10 | 体験やイメージ


最近、瞑想をまた短い時間始めた。


変なイメージがあった。


ガリガリに痩せて背中を丸めながらズリズリ歩いている裸の人が
私のエネルギーの光に覆いかぶさって
光がそれ以上拡大するのを邪魔しているように見えた。

それから、もう一人のガリガリの裸の人は
私の前にしゃがんで私のほうをみて
口を大きく開けている(顎が外れているよう!)
この人は私のエネルギーをものすごい勢いで吸い込んでる。


最初は悪いものを私に吐いているのかと思ったら違った。




これは客観的に見ているのですが・・・


何でこんなの見たのかな?と思ったら次の瞬間にわかった。




私は自分のエネルギーには多少気を付けている。

でも、案外自分が思っている以上に
人のエネルギーに影響されているのだと思う。

これは褒められることでは全くない。


人のエネルギーに作用されやすいというのは
こんなイメージのようにもなるわけです。


エネルギーを奪っていく人もいれば
私のエネルギーを小さくさせる人もいる。


自分で自覚をもって
自分自身のエネルギーからきているものなのか
外からのエネルギーなのか認識する必要がある。


自分じゃないのに落ち込むことも必要なく
横柄になることもなく、浮かれることもなく
もっとフラットでいられるはず。




きっちり、地に足をつけここに在ること。



そこに在る、自分という存在に流れるエネルギー。



もっと、単純化してみるとわかりやすく
浮き出てくるものがある。



無い中に見えるものがある。



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自分というドライブへの旅

2017-09-06 | 体験やイメージ


30代の時は全く「年をとる」ことに対して
理解はしていても実感がなかった気がします。



それから更に年をとって、人生も半ばに来たとたん
何だか急に老けてきたし節々が痛くなったり
身体の老化を実感してきて
やっと、これが「年をとる」ってことかと認識しています。


もちろん、太ってきたり痩せてきたりするのも一つですよね。

身体の機能が落ちてきたり。



その身体を心地よく使えるためのメンテナンスが必要なときは
何かや誰かにお願いするのも有りだと思います。


昨日書いた整体も私にとって、その一つです。



最近特に強く感じているのですが
与えられている身体は
自分だと思っている自分じゃないものの
乗り物のようなものではないかと・・・


それを持って、どのように動かし操縦するのかは自分次第。






ちょうど、分かりやすい例えが来たので・・・


身体は「車」のようなものと考えてもらえば分かりやすいと思う。



新車を買うときに、見た目のカッコよさを優先したり
それぞれに適した実用性だけを優先したり、
スピードや機能の丈夫さや耐久性、
頑丈なものから色々なタイプがあります。
多くの人が憧れるものもありますね。


それで生まれてから人生という旅に出る・・・



ただ前だけ見て猛スピードで走っていく
慎重に左右の確認をしながら制限スピード以下でゆっくり走る。

周りの景色を見る余裕がある人ない人。

誰かが道を渡りたいのに譲ることなんてせず
自分がとにかく優先。

いつも車庫で磨いてばかりいたり
全く車庫から出さず車の存在さえ忘れられているかのようなものも。



自分の車で知らいな土地へドライブ・・・
地図もないし目的さえない旅の途中。


運転中、目的ができるかもしれないし
誰かに出会って会話に夢中になるかもしれないし
方向を変えるかもしれない。
誰かがいることに気付いても車を止まらせずに通り過ぎるかもしれない。




それをどのように扱い運転していくのだろ・・・


ちゃんと定期的にメンテナンスしている人もいれば
酷使して故障して初めてメンテナンスが必要だと気付く人もいる。



どんなタイプだろうが、同じように乗り物であることに変わりはない。
天気が悪い日もいい日も同じようにあり、
高速道路のような道や一般道、舗装されていない道に出るかもしれないし
選んでいくかもしれない・・・


それでも向き不向きなど活かせるものも違います。




だけれど、これだけは同じように忘れてはいけないことがある。


乗り物自体に夢中になり過ぎてしまうので注意ということ・・・




自分の車に夢中になりすぎてしまったりしたら
本来の目的をを忘れて本末転倒。




はじめは故障も少ないかもしれないけれど操縦は上手くないかもしれない。
無茶をしてもまあ何とか大丈夫かも。
ある程度の時がきてメンテナンスが必要なときは上手に取り入れ
本来の性能を活かして周りの景色にも気づける余裕をもって
ドライブをしていく。

どのように運転してどんな道を選びながら進んでいくのか・・・




人生という道をドライブしているのかもしれませんね。



そんなイメージがありました。
















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変化

2017-07-20 | 体験やイメージ


私は今週になってエネルギーが変わった気がする。



今はまだ分からないけれど良くなる。

良いと思う人、悪いと思う人に分かれるだろうけど…



私のエネルギーってことは、もちろん全体にとってもということ。



今までとは変わっていくようだ。





在るべきことは本来在るべきことへ・・・



必要な場所へと降りていく・・・




守られるものは守られ、崩壊するものは崩壊する





幻想的な不確かさが崩れるのも時間の問題になる



正しいと思っていたものが不確かに見えるのなら
正しいはずだとしがみつけばつくほど
より深みにはまるだけで苦しさは増すような・・・



自分の下にくるもの、こないもの。



執着ではなく必要か?天に任せる時代なんだ。





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一瞬の意味を理解すること

2017-05-07 | 体験やイメージ


違う角度から物事を眺めると、
ネガティブがポジティブに変わる瞬間がある。



分かる、気づくと体感実感するとは
随分違うようだけれども
人間は上手くできていて、
せっかくの理解も瞬間的に入ってくるときもあれば
瞬間的に色あせてしまうように
嫌でもそれは消えていくように感じる。


成長度合いによるのかもしれないけれど・・・

私にとってはそんな瞬間がたまにある。




とてつもない英知も酷いことも
一定の幅をこえたものは留まれないのかな・・・


私には分からないし確定することもできないし
そうする必要もないのだけれど。



でも、一部の人にはある一定の部分に裂け目のようなものがあって
一般の人には手に入らない情報を
しっかりつかむことができたりするのではないかな?




一般的な人間にとっては、そんな一瞬一瞬から
ひらめきも気づきも、
時には立ち直ることもできるのかもしれない・・・

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ブルーのスカートとサンダルの人

2017-03-22 | 体験やイメージ


今日、フッと面白いイメージがあった。


私ではないけれど、肩より上の髪の毛の女性。

白っぽいニットを着て、少しグリーンがかったブルーの
スカートに同じ色のサンダルを履いた
こぎれいな格好をしているのに、交差点?に
両足をまっすぐ伸ばして座っている。

私はきれいな格好をしているのに
どうして道路にペタっと座っているのだろう?
と違和感があった。

両手をだらっおろし、全然「動」の感じを受けなかった。


やや後ろ側から彼女を見ていいるので
顔は見えなくて、スカートとサンダルの
ブルーに目がいっていた。


どうしてこんなところにすわっているのだろう?
と眺めながら、我にかえった。




準備はできているけれど
まだ何処へ向かうか自分自身で分からない状況の人
のような気がした。



なんだろうね~



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